チンドウィン川航行中の国軍食糧輸送船が襲撃される
10月26日午前、ザガイン管区のチンドウィン川を航行中の国軍の食糧輸送船が地元の人民防衛隊により襲撃され、国軍側に多くの負傷者が発生していることが明らかになった。Radio Free Asiaが伝えた。 地元の人民防衛隊によると、チンドウィン川を航行中の国軍の食糧輸送船に対してチャウンウー、カニ、モンユワなど各都市に拠点を置く人民防衛隊の合同隊が8か所から奇襲攻撃をかけたという。 同管区では、10月27日にもモンユワ~マンダレー道路上でミンムー人民防衛隊、ミャウン人民防衛隊、ミンムー電撃ゲリラ隊など6グループが地雷攻撃を仕掛け、軍用車を爆破し国軍兵士数人が死亡した。
「ミャンマー国軍への圧力強める」ASEAN首脳会議声明
東南アジア諸国連合(ASEAN)は、10月26日に開催した首脳会議の議長声明を発表した。これによると、クーデターを起こした国軍による市民弾圧が続くミャンマー情勢に「懸念」を表明。草案段階よりも、会議参加を拒否した国軍への圧力を強めた内容となっている。 声明は、ミャンマーで犠牲者や暴力が報告されていると指摘し、4月の特別首脳会議で合意した特使派遣や暴力の即時停止など5項目の履行を求めた。特使に関しては、民主派を含む全当事者との面会を認めるよう促した。 また、「内政不干渉の原則を尊重しつつも、法の支配、民主主義や立憲政治の原則を順守する」と強調した。この部分は草案にはなかった。首脳会議から国軍トップのミン・アウン・フライン総司令官を排除したASEANに対し、国軍が「内政不干渉の原則を定めたASEAN憲章違反」と反発したことから、急遽盛り込まれたとみられる。(時事通信社提供)
軍評議会「ASEAN首脳会議欠席はボイコットではない」
軍評議会・外務省は10月26日、ASEAN首脳会議に欠席したことに関する声明文を発表した。Radio Free Asiaが伝えた。 これによると、「ASEAN首脳会議に欠席したのはASEANに対して不満があり、ボイコットしたという意味ではない。会議に出席する権利があることを主張するためだ」と主張した。 シンガポールのリー・シェンロン首相は「ミャンマーは早急にASEAN特使を受け入れるべきで、ミャンマーの現状は国民にとって何の利益もなく、ASEANの名誉も失墜している」とコメントした。全会一致が原則のASEANで、1か国が欠席して首脳会議が行われたのはASEAN設立以来で初めてのこと。
米国補佐官が国民統一政府とオンラインで会談
米国国家安全保障補佐官のジェイク・サリバン氏が10月25日、民主派の国民統一政府(NUG)とオンライン方式で会談を行ったことが明らかになった。Radio Free Asiaが26日に伝えた。 会談には、NUGのドゥワ・ラシー・ラ大統領代行と外務省のズィン・マー・アウン大臣が出席、ミャンマーの現状と民主化に関して話し合いが行われた。 サリバン氏は「ミャンマー国軍が犯している酷い弾圧や殺戮、人権侵害に関して憂慮している。政治活動家のジニー氏が逮捕されたことも憂慮している」と話した。サリバン氏はバイデン政権の重要閣僚の一人で、外交の場面でも頻繁に登場している。
集会禁止令を無視し国軍支持デモを開催、警察隊が警護
エーヤワディ管区パテイン市内で国軍を支持するデモが2日連続で行われた。Mizzima-News in Burmeseが10月26日に伝えた。 調べによると、10月25日と26日にパテイン市内のカンターヤ競技場とヒッタイン競技場で国軍を支持する集会が200人規模で行われ、その後市内をデモ行進した。市内に配置されている警察隊や国軍兵士はデモ行進を制止することなく、デモ隊を警護したという。 パテイン市内の住民は「パテイン市内では、10月15日に5人を超えるデモや集会を禁止する命令が出されたばかり。その命令を無視して彼らは200人規模の集会やデモを行っている。しかも、武装した警察隊はデモを制止するどころか、警護している有様だ」と伝えている。
NUGが新ASEAN大使にボ・ラ・ティッ氏を任命
民主化勢力により樹立した国民統一政府(NUG)は10月26日、新しいASEAN大使としてボ・ラ・ティッ氏を任命したと発表した。Radio Free Asiaが伝えた。 ボ・ラ・ティッ氏は、セイン・ウィン首相が率いるビルマ連邦国民連合政府時代(1990年~2012年)に建設大臣や外務大臣などを歴任、国連ミャンマー代表団のメンバーだった。 ビルマ連邦国民連合政府は、かつてアメリカ・メリーランド州のロックヴィルに存在したミャンマー(ビルマ)の亡命政府。軍事政権による民主派弾圧に対抗するため、1990年の総選挙で選出された民主派議員によって樹立された。ミャンマーの政治体制が民主化されたことを受け、本国での民主化運動へ合流する目的で2012年に解散した。