TOP対談

カレン民族同盟(KNU)第5旅団報道官 パドー・マンマン 氏(P.4)

カレン民族の民意は「国軍否定」と「抗戦」にある 永杉 今後カイン州やミャンマー情勢はどうなっていくとお考えですか。 マンマン KNUの指導部は国軍との妥協やNCAに固執していますが、カレン民族はそうではありません。大勢が国軍を否定し、信じるべきではないと考えています。KNUはカレンの人々の民心をつかんでいないのです。 永杉 国軍との対立はより深まっていく可能性があるかもしれません。カイン州での戦闘の拡大も懸念されますが、マンマンさんはミャンマーの政治体制はどうあるべきだと考えていますか。 マンマン どの州でもどの民族も、平等で自由な連邦制国家が理想です。しかし、国軍は少数民族だけでなく人口が最も多いビルマ族のことすら大切に考えてはいません。国軍幹部の保身と自分たちの権力維持にしか関心がないのです。だからこそ、少数民族も含めた国民を分断し対立させ、争い続けさせています。 永杉 ここタイ・ミャンマー国境でも、まだまだ混乱が収まりそうにはないですね。私は昨年、在日ミャンマー人や日本人有志、超党派の国会議員らとともに「ミャンマー国際支援機構(MIAO)」というNPO法人を立ち上げました。私たちもこの国境地帯に対してどのような支援ができるのか、改めて考えてみたいと思います。本日はお忙しい中ありがとうございました。 (取材協力:ジャパンソサエティ井本勝幸 撮影:尾崎ゆうき) 永杉 豊 [Nagasugi Yutaka] MJIホールディングス代表取締役 NPO法人ミャンマー国際支援機構代表理事 学生時代に起業、その後ロサンゼルス、上海、ヤンゴンに移住し現地法人を設立。2013年6月より日本及びミャンマーで情報誌「MYANMAR JAPON」を発行、ミャンマーニュースサイト「MYANMAR JAPONオンライン」とともに両メディアの統括編集長も務める。 (一社)日本ミャンマー友好協会副会長、(公社)日本ニュービジネス協議会連合会特別委員、UMFCCI(ミャンマー商工会議所連盟)、ヤンゴンロータリークラブに所属。著書に『ミャンマー危機 選択を迫られる日本』(扶桑社)。 << 前ページ 困窮するミャンマー市民のために皆様のご支援を

Overseas Irrawaddy Association(OIA)代表 フォー・ティンジャン 氏(P.3)

縫製訓練センターを立ち上げ 難民の自活を支援する 永杉 今後、OIAとしてメーソートや国境地帯の人々をどのように支援していこうと考えていますか。 フォー 現在、食料が圧倒的に不足しているという現実があります。ですから、当面はさまざまな団体や個人から寄付や支援を受けて食糧支援を続けていかなければなりません。  一方で、その支援方法には限界があります。現時点でさえ、すべての難民や避難民に食料を行き渡らせることができていません。今後、更に避難民が増えれば、一人あたりの支援はより手薄になってしまうでしょう。  その状況を打破するためには、避難民一人ひとりが自活する必要があります。そこで我々は、支援団体からサポートを受けてメーソートに縫製訓練センターを作りました。難民にここで縫製の実習訓練を重ねてもらい、地元の工場に就職できるよう協力していきます。将来的には工場で働くだけでなく、希望する人にミシンや材料を無償提供し、自宅で衣料品を作って納品してもらい手数料を支払うというようなビジネスモデルも考えています。 永杉 現在はどのような製品を作っているのでしょうか。 フォー Tシャツなどを作っています。ここで製作したTシャツは日本でも買えるようになる予定です。 永杉 製品を買えるようになれば、手軽な支援の形として日本人も協力しやすくなりますね。いい考えだと思います。最後に、日本人へのメッセージをお願いします。 フォー アジア各国の中でも、日本は民主主義や人権問題に関して高度な認識を有している国だと考えています。特に東南アジア諸国と比べると遥かに進んでいます。日本人には、今ミャンマー人が自由を求めて戦っている思いを共感していただけるのではないでしょうか。  ミャンマーと日本の間には長く深い交流の歴史があります。独立闘争の時代を振り返ってみても、日本が大きな役割を果たしてくれました。こういうことを言うのはあつかましく申し訳ないと思いますが、今一度、ミャンマーのために日本国民皆さまのお力添えをいただきたいと考えています。 永杉 私は昨年、「ミャンマー国際支援機構(MIAO)」というNPO法人を、在日ミャンマー人や日本人有志、超党派の国会議員らとともに立ち上げました。そこでは、支援の手が届かない人々に向けて食糧支援を行うことも活動の柱の一つとして掲げています。ですから、OIAが行っているような避難民への食料支援には是非協力したいと思います。  一方、本日お話をうかがったような、難民の自活も大変重要な話だと思いました。もちろん、ミャンマーが安定して難民の方々が帰国できることが一番ですが、現実はそうではありません。「難民の自活」という新たな支援方法についても模索したいと思い至りました。本日はお忙しい中ありがとうございました。 (取材協力:ジャパンソサエティ井本勝幸 撮影:尾崎ゆうき) 永杉 豊 [Nagasugi Yutaka] MJIホールディングス代表取締役 NPO法人ミャンマー国際支援機構代表理事 学生時代に起業、その後ロサンゼルス、上海、ヤンゴンに移住し現地法人を設立。2013年6月より日本及びミャンマーで情報誌「MYANMAR JAPON」を発行、ミャンマーニュースサイト「MYANMAR JAPONオンライン」とともに両メディアの統括編集長も務める。 (一社)日本ミャンマー友好協会副会長、(公社)日本ニュービジネス協議会連合会特別委員、UMFCCI(ミャンマー商工会議所連盟)、ヤンゴンロータリークラブに所属。著書に『ミャンマー危機 選択を迫られる日本』(扶桑社)。 << 前ページ 困窮するミャンマー市民のために皆様のご支援を

日本財団会長・ミャンマー国民和解担当日本政府代表 笹川陽平 氏(3/3)

「沈黙の外交」批判は承知 それでもミャンマーのために沈黙を守り抜く 永杉 人道支援の一方で、笹川さんはスー・チー氏だけでなくミン・アウン・フライン氏ともパイプを持ち、ミャンマー和平のために外交活動を続けておられます。この「パイプ」がときに批判を受けています。こうした意見に対しては「沈黙の外交」を堅持するとお話されていましたが、現在もその方針に変わりはありませんか? 笹川 まったく変わりません。今回の停戦交渉はアラカン軍と国軍の双方から要請があり、極秘で進めてきたのですが、アラカン軍が何らかの事情で「笹川の仲介」と発表したのです。  いろいろなご批判があることは承知していますが、私としては沈黙を守って仕事をするだけです。日本語で言えば〝アヒルの水かき〟でしょうか。水面に黙って浮いているように見えますが、水の中では一生懸命足を動かしているのがアヒルです。今回の停戦ではアラカン軍が記者会見したことで私の活動も表に出ましたが、本来は沈黙しつつ働くというだけです。たくさんの人が絡むデリケートな問題ですからね。 永杉 アヒル、ですか(笑)。しかし、そのラカイン州では停戦後にマウンドーにある国軍系のBGF(国境警備隊)旧駐屯地に国軍兵士約200人が追加配備され、アラカン軍が警戒しているという情報もあります。 笹川 停戦について大筋はまとめてきましたが、詳細を詰めていく作業はこれからも続きます。〝アヒルの水かき〟です。ともかく停戦を機にラカイン州への陸路も水路も開きましたし、農民は安心して稲の刈り入れができるようになりました。 永杉 ミャンマーとの最も太いパイプを持ち、民間外交ができる人物と言っていい笹川さんですが、今後のミャンマー和平をどう進めていこうとお考えでしょうか。 笹川 ミャンマーは困難な歴史が非常に長い国で、さまざまな立場の方が関係しています。だから和平と言っても、こちらで解が出たと思っても、別の方向から見れば答えになっていなかったりします。高等数学を解くような話なのです。力で解決できる問題でもありません。私はもう84歳になります。人生最後の仕事だと思っています。一日も早くミャンマーが平和な国になるよう“アヒルの水かき“を続けて参ります。 永杉 本日はご多忙の折インタビューにご対応くださりありがとうございました。一日も早くミャンマーに平和が訪れることを祈念したいと思います。 永杉 豊 [Nagasugi Yutaka] MJIホールディングス代表取締役 NPO法人ミャンマー国際支援機構代表理事 学生時代に起業、その後ロサンゼルス、上海、ヤンゴンに移住し現地法人を設立。2013年6月より日本及びミャンマーで情報誌「MYANMAR JAPON」を発行、ミャンマーニュースサイト「MYANMAR JAPONオンライン」とともに両メディアの統括編集長も務める。 (一社)日本ミャンマー友好協会副会長、(公社)日本ニュービジネス協議会連合会特別委員、UMFCCI(ミャンマー商工会議所連盟)、ヤンゴンロータリークラブに所属。近著に『ミャンマー危機 選択を迫られる日本』(扶桑社)。 << 前ページ 3,000円のご支援で1か月飢えをしのぐことができます

日本財団会長・ミャンマー国民和解担当日本政府代表 笹川陽平 氏(2/3)

永杉 〝人道的停戦〟とは、私は今まで耳にしたことがなかったのですが、なぜこのような名称にしたのでしょうか。 笹川 私はこれまでにテイン・セイン政権下とスー・チー政権下で、国軍と少数民族の停戦を仲介してきました。しかし停戦という概念は、実はたいへん難しいのです。停戦内容の細部について、言葉の解釈の問題でトラブルになることもあるのです。そこで〝人道的停戦〟という言葉なら、避難民を含めた住民の食糧支援や衣服、それに診療所や学校建設まで住民のための人道活動が可能になるのではないかと考え、この言葉を使いました。今回の件は、世界で初めて「紛争地における、人道的立場からの停戦」ではないでしょうか。それを定着させたいという思いでいます。 永杉 国軍がラカイン州内への交通を封鎖したことで、市民が食料や医薬品不足に直面していましたが、停戦によって困難が解消されることが期待されます。 笹川 ラカイン州は冬になると寒くなる地域もありますし、食料のほか衣料品も必要という声があります。今その支援の準備をしているところです。できるだけ早く届けたいと思っています。 東京大空襲を生き延び、草を食べた過酷な原体験 永杉 今回の停戦合意に対して、ラカイン州に住んでいるロヒンギャをはじめとした住民は賛成していますが、在日ミャンマー人の一部からは反対意見も出ています。どちらかというとカレン族やチン族、シャン族といった少数民族の人々が、停戦に不安を感じているようです。ラカイン州で戦闘が中止になったら、国軍がその戦力で自分たちの故郷を襲撃してくるのではないかと話す人もいます。国の各所で内戦をしている状況で、一か所だけ停戦を合意しても全体の火を鎮めるのは難しいのではないでしょうか? 笹川 まず成功例を作っていくのが大事なことだと思っています。ミャンマーにはたくさんの少数民族が50年近くに渡って紛争を続けてきました。これらがひとつにまとまっていればもっと早く平和が訪れたと思いますが、歴史的背景を見ますとなかなか難しいものがあります。それでも現実のところ、まず紛争による被害者が一人でも二人でも減っていくよう努力する以外に方法はないと思っています。 永杉 日本財団はミャンマー南東地域カレン州のレイ・ケイ・コー村でも、紛争からの復興支援事業を行っています。 笹川 レイ・ケイ・コーでも、被害者はいつも無辜の人たちです。私は6歳のときに東京大空襲に遭っていますが、たった2時間半で10万8000人もの人々が亡くなり、数十万人が傷つき、数十万戸の家が焼かれました。私に言わせればジェノサイド(大量虐殺)です。私は母親とともに生き残って、それからは食糧難で草を茹でて食べたり、栄養失調になって体中におできがたくさんできて、たかって来る蠅を払うのに苦労した体験があります。だからこそ、同じような子供たちを一人でも助けたい、無辜の市民により安全に安心して暮らしてもらいたいという思いから支援を続けています。思想とか政治は関係ないのです。 永杉 2015年にヤンゴンで笹川さんにインタビューをお願いしましたが、今までにミャンマーへは150回も足を運ばれているそうですね。なぜでしょうか。 笹川 1970年代から関わりはじめました。ハンセン病の撲滅運動が最初です。それから米や油、医薬品などの支援、学校も辺境地域に750校ほどつくりました。 永杉 スー・チー氏ともたびたび会談をされていますが、どのようなお話が印象に残っていますか。 笹川 彼女の父親であるアウンサン将軍の軍刀を「日本できれいに研いでほしい」と預かりました。この軍刀は、彼の唯一にして最大の宝物だったそうです。美しく完成しましたので一日も早く彼女に届けたいものです。 << 前ページ  次ページ >> 3,000円のご支援で1か月飢えをしのぐことができます