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<2016年4月号>優秀な人材、どうしたら採れる?ヤンゴン就活事情

【特集】優秀な人材、どうしたら採れる?ヤンゴン就活事情 KDDI と住友商事が参画するMPT ジョイントオペレーションは1月30~31日、採用に直結する独自のジョブフェアを開催した。通信最大手の採用イベントとあって、会場のパークロイヤルホテルには1日千人以上が詰めかけた。 まず求職者の希望やキャリアを加味して各部門に振り分け、一次面接を行う。これを通過すると、各部門の幹部がじっくりと二次面接を実施。最終決定は後日行うが、実質的に採用者はこの日に決まっていると言っていい。流れ作業のように多数の求職者と面接ができるので、大量採用が必要な同社には適している。 同社にとっては初めての試み。ある幹部は「独自イベントなので、目的意識がはっきりした人が多かった。いい人材が数人いたので、うちの部署でも採用したい」と話していた。  三井住友銀行ヤンゴン支店は1月26日、新入行員6人の入行式を行った。人生の節目の儀式を行うことで、同銀の一員であると自覚してもらうのが目的。この日の式典には出身校の学長らが出席。式に招待された父母らも子どもの成長を誇らしげに見守った。女性新入行員は「国際ビジネスの第一線の知識を覚えられることがうれしい」と期待を膨らませる。 同行は奨学金を支給しているヤンゴン大、ヤンゴン経済大、ヤンゴン外国語大の3校に限定して新卒を募集。人材紹介業者の協力を得ながら約100人の応募から2回の面接試験で選抜した。赤木伸康支店長は「思っていたよりもずっと優秀な人材が採れた」と笑顔を見せる。 入行から1年半は研修期間で、財務や法人金融など4つの部門で一通りの銀行業務の経験を積む。その後、各部署に配属されて専門性を身につける仕組みだ。同支店幹部は「研修やキャリアパスを明確にすることで、長く勤めてもらう狙いがある」と話している。 人事担当者に聞く 求められる問題解決型人材 MPTジョイントオペレーション 土屋宏樹ダイレクター MPT ジョイントオペレーションでは、年間数百人の新規採用が必要になります。人材紹介業者を利用するほか、ジョブフェアなどで広く人材を集めています。 重視するのは、3つの点です。まずは人物。多くの人と一緒に仕事をするので、チームで仕事ができる性格の人が向いています。次には、経験を重視します。コールセンターや営業職では新卒も採りますが、ほとんどは数年の経験を積んだ即戦力の人材を募集しています。3番目は能力ですが、その中でもソフトスキルを重視します。これは例えば、交渉力やリーダーシップ、問題解決力などです。ミャンマーにはソフトスキルが高い人材はまだ少ないですが、最近はビジネススクールなどでそういった手法を学んでいる人もいます。 また、実力主義の人事方針を採っています。年に1回、スタッフの人事評価をします。能力とやる気がある人には手厚く報いたいと思います。また、社内の研修のほか、外部から講師を呼んでトレーニングも行います。職員が働くことにやりがいを感じ、長期的に務めてもらえるような職場づくりを目指しています。 できるミャンマー人が活用!「リンクトイン就活」って何?  最近、ミャンマーで就職活動に利用する人が急増しているのが、交流サイト「リンクトイン(LinkedIn)」だ。フェイスブックほどは普及していないが、若く有能なミャンマー人が続々と登録。自分の履歴書をアップして、ビジネスのネットワークづくりに利用している。 リンクトインを使って大手銀行のアシスタント・マネジャーのポストを射止めたのはヤンゴン在住のエイ・マットさん(27)。エイさんはこの銀行のポストに応募していたが、人事部からは、なしのつぶてだった。それがリンクトインで人事部長を発見し連絡を取ると、週内に面接をすることができたという。これをきっかけに就職が決まった。エイさんは「リンクトインを使えば、今まで会うことができなかった人に簡単に連絡が取れる。今では、仕事で最も使えるツールだ」と話す。 企業側がヘッドハンティングに使うケースもある。編集者のアイビーさん(28)は、リンクトインに詳しいプロフィールを載せたところ、外資系マスコミからオファーを受けて転職することになった。「オファーのメールを見て驚いた。ただ、こうした機会は今後増えるだろう」とアイビーさんは考える。 リンクトインは2003年に始まった交流サイトで、米カリフォルニア州が拠点。200か国の4億人以上が、取引相手や就職先を探すことなどに使っている。自分の写真や詳細な職歴を掲載するユーザーが多く、相手のことがよくわかるのが特徴。業界のグループもあり、共通項のある人物が容易に知り合える仕組みになっている。 人材確保Q&A どうすればいいの? フォーバル・ミャンマー 松村 健 社長 Q. まず、ミャンマーの人材市場の動向を教えてください。 A. 民政移管を受けて、日本企業などグローバル企業が実際に事業を始める段階に入ってきて、英語を話せる優秀な人材が極端に不足しています。また、求められる人材の質も上がっています。例えば総合商社などでは、タイやシンガポールのエキスパートと対等に会話ができるクラスの人材を求めています。こうした人材は少なく、欧米系を中心にヘッドハンティングも横行しています。1000ドル~2000ドルプレイヤーも出てきているうえ、さらにそれを倍の給料で引き抜こうとする動きすらあります。マネジャークラスでは、極端な売り手市場と言わざるを得ません。 日本語人材を求めるのは主に日本の中堅や中小ですが、どんどん進出して来ているので需要は大きくなっています。工場労働者については、都市部ではだいぶ枯渇して来ているので、大量採用が難しくなっています。 Q. このような状況で、日系企業が優秀な人材を確保する方法は。 A. 近道はないでしょう。まず、企業としてのポリシーや、グローバル企業であることなどをしっかり伝えることだと思います。また、研修制度や評価制度を明確にして、会社で働くことの魅力を感じてもらうことが大切です。人材紹介業者を使うのなら、人材のスペックの優先順位をはっきりさせたほうが良いですね。 ここ1年ほどで、独自の会社説明会を行ってテストや面接をする企業も出てきています。技術系など求める人材がはっきりしている場合には有効だと思います。新卒採用は教育が必要になりますので、話が通じやすい日本語人材や技術系がメインでしょう。また、求職者がネットで仕事を探すようになっています。業者がインターネットで求職者の履歴書を集め、まとめて販売するシステムもあるので、利用するのも一つの方法ですね。

<2016年3月号>取引所オープンでベンチャーの春は来るのか若き起業家の奮闘

【特集】取引所オープンでベンチャーの春は来るのか 若き起業家の奮闘 「サービスが一番だ。仕組みは後で作れる」 旅行サイト「オーウェイ」 ネ・アウン社長(36) ミャンマー生まれ、高校卒業後に渡米。米アリゾナ大学、ロンドンスクールオブエコノミー卒。スタンフォード大学ビジネススクール在学中にオンライン広告会社「ブルー・リチウム」の立ち上げに参画。その後米グーグルに移籍し、「グーグルウォレット」のプロダクトチームや傘下のコンサルティンググループを4年に渡り経験する。2012年に帰緬。 コーヒーショップ発、グーグル流  800軒を超えるホテル、160ヶ国を超える航空券やツアーを取扱う予約サイト「オーウェイ」。主力の旅行サイト運営の他に、企業向け出張トラベルデスク、車レンタルやタクシーサービス、物流事業と、多彩ながら人や物を「運ぶ」事に特化したビジネスを展開する。  オーウェイを立ち上げたネ・アウン社長は、高校卒業後アメリカに留学。スタンフォード大ビジネススクール在学中に起業に携わる。ウェブ閲覧履歴から消費者の興味を類推する広告ビジネスで成功を収め、米ヤフーに事業を売却した。その後米グーグルに移り、経営分析やコンサルティングの経験を積む。  米国でも成功していたが、2012年に祖国に戻りビジネスを始めた。「民政移管でどうなるのか不透明だったが、通信分野に大きな投資がされるという確信はあった」という。「まともにネットがつながる場所は3カ所だけ」という当時のヤンゴンで、初めての職場はネットが使えるコーヒーショップ。インドのエンジニアとネット上でやり取りを重ね、サイトの制作に取りかかった。「当時ミャンマーに旅行予約サイトはまだなく、はじめは難しさも感じた。ただ、同時に強いニーズがあるとも感じていた」。 目標は2年後の地域リーダー  ネ・アウン社長の思考回路は、グーグルマップなど革新的なサービスを打ち出してユーザーを押さえるグーグルの考え方に一致する。彼は「サービスが一番だ」と強調する。良いサービスで顧客を囲い込めば、決済方法など利益を出す仕組みは後で考えられるという意味だ。だからこそ、サービスが高いレベルで遂行されなくてはならないという。例えば、同社の新サービス「オーウェイ・ライド」は、一般の車とドライバーをタクシーのように利用できる配車サービスだ。同社では登録ドライバーに対して、顧客から注文を受けた時、乗車の前夜、そして3時間前の計3回確認を行う。「ささいな事かもしれないが、勝ち残るには上質なサービスを確実に実行出来るかが最も重要だ」と話す。  目指すものは「向こう2年で、ミャンマーやカンボジアなどの地域で、旅行とロジスティクスのリーダーとなること」だ。ヤンゴンのコーヒーショップで産声を上げたサービスが、ミャンマーの枠を超えて飛躍しようとしている。 ITベンチャーしのぎ削る旅行業界 旅行業界には、IT を駆使してイノベーションを起こそうとする起業家が次々と誕生している。 長距離バス予約アプリ「スターチケット」を運営するイグナイトのテット・モン・エイ社長(29)は、チケット代金のコンビニエンスストア店頭支払いをミャンマーで初めて実現した。イギリス留学から帰国後、企業勤めを経てソフトウェア会社を創業した。毎週末バスターミナルに出向き、どうやって予約や運行を行っているかを徹底的に分析。イーライトとマンダラーミンのバス大手2社に、タブレットを活用した予約・運行管理システムを導入した。 2014年にはスターチケットのサービスを開始。アプリでバスチケットを注文し、コンビニの店頭で支払いができる仕組みだ。しかし、ミャンマーの環境ではスムーズにビジネスが進まないのも事実。ある利用者は「コンビニでチケットを買おうとしたらネットにつながらない、システムがわかる店員がいないなどで、次々と利用を断られた」と憤る。テット社長はそうした際には自ら苦情電話をとり、トラブル解決にあたる。 このほかにもスマホアプリを使ったタクシー配車サービスなどが次々と生まれており、旅行関連のIT を活用した新ビジネスが相次いでいる。 壁があるならぶち破れ! 挑戦する起業家たち 初のコールセンター ブルーオーシャン トゥン・トゥン・ナイン会長兼CEO(39)  入り口から受付を抜けると、大部屋に数百人のスタッフが並び電話の話し声がせわしなく飛び交う。2011年にミャンマーで初のコールセンターを開始したブルー・オーシャンは試行錯誤を経て、通信大手などミャンマー企業から業務を受託。今やヤンゴンとマンダレーの拠点で900人以上のスタッフを抱える。 トゥン・トゥン・ナイン会長はポテトチップの製造やSIM カードのレンタルなど多数の事業を手掛けたが失敗。その中で、フィリピンで視察したコールセンターのビジネスに感銘を受ける。「ミャンマーにまだないビジネスをやりたかった。国内に大規模な雇用を創り出せる可能性にも魅力を感じた」。 今や大所帯となった組織をまとめ上げるために、毎月200~ 300人の従業員と自ら面談し、現場の問題把握に取り組む。コールセンターには若い人材を配置する一方で、経営陣にはMBA を必須とし、全ての管理部門を1年で経験させるなど、戦略的な人事方針を掲げる。「ミャンマーの三木谷浩史氏」(フォーバル・ミャンマーの松村健社長談)と評する人もいるほどのベンチャーの旗手として知られ、革新的な起業家として表彰も受けている。 プログラマーから農業へ ジーニアス・コーヒー 創業者 グエ・トゥン氏(39) シャン州南部のワー・グエン地方は、コーヒー豆の栽培に最適な気候条件が揃う。グエ・トゥン氏は、この地に農場を作ってコーヒー豆を生産、焙煎して販売する。輸出も手掛けている。 グエ氏は、もともとミャンマー語フォントを開発した凄腕プログラマーだった。彼が農業ビジネスへの転身を決意したのは、ミャンマーで飲むコーヒーの味が海外で飲むものに比べて「あまりにまずかった」ことがきっかけという。プログラマー時代の蓄えを元手にコーヒー焙煎事業を開始。ほどなくして農地を買取り、生産に乗り出した。 ただ、畑違いの農業ビジネスは一筋縄ではいかなかった。海外では「ミャンマー産は低品質」、国内でも「輸入品のほうが高品質」と思われており、高品質のミャンマーコーヒーのイメージを作り上げるのに時間がかかった。自社製品を提供する喫茶店「カフェ・ジーニアス」を開店し、実際に味わってもらったうえで販売する方法も導入した。 今後はコーヒー豆に限らず、農業生産者と消費者の直接の取引を目指す。中間業者が農産物を買いたたくことが多いからだ。グエ・トゥン氏は「農家が生産物の価値を正しく判断し、適正に売ることができるようにしたい」と話している。 ベンチャーの機運高まる、資金・人材の壁は高く 証券取引所がオープンし、ミャンマーにもベンチャーの機運が高まっている。2011年以降の対外開放政策やIT 環境の改善も新ビジネス立ち上げを後押しする。従来、若者の独立志向が強いミャンマーだが、ベンチャーを巡る環境はいまだ厳しい。 一番の壁は資金調達の難しさだ。国内の投資家は資源やインフラなど重厚長大産業を重視し、ベンチャーに目を向ける人は少ない。また、銀行は土地などの担保を要求するため、若手起業家には高いハードルだ。有望なビジネスに投資するベンチャーキャピタルも存在しない。ミャンマーから日本に帰化後、ヤンゴンでニュースサイト「チェルモ」を起業した高瀬智也氏は「事業が軌道に乗るまで約2年を生き残れるだけの資金が必要。日本円にすると数百万円から1000万円が要るだろう」と話す。このため、起業に耐えうる資金を用意できるのは、親族に資産家がいるケースや、海外帰国組が多い。また、別の収益事業を確保しながら、メインの新ビジネスに挑戦するパターンもある。 海外の投資家がミャンマーのベンチャー投資に積極的でないのは「出口が見えないから」(コンサルティング会社MCSAの後藤伸介社長)だ。ベンチャーに出資する投資ファンドは通常、株式公開(IPO)後に株式売却で巨額の利益を得ることを目的に、あえてリスクの高い投資を行う。ただ、ミャンマーでは株式市場ができたばかりでベンチャー企業の上場は未知数だ。後藤社長は「現在IPO が有望視されるのは大企業。ベンチャー上場はしばらく先になる」と予測する。 人材の問題もある。ある若手起業家は「メンターがいない」ことに悩む。確かに、先進国ではベンチャー育成の仕組みが発達し、有望なビジネスにはベンチャーキャピタルが経験豊富なCFO などの役員を送り込む。このような「先輩がいない」つらさもミャンマーの若手経営者は味わう。 一方でこの現状を打破しようと、起業を後押しする活動も広がりつつある。そのひとつが2014年に発足した起業家支援団体「パンディーヤ」だ。起業家同士の情報交換やセミナーなど100回以上のイベントを開催。昨年11月のビジネスコンテストは200チームを超える起業家が参加する活況を呈した。このほかにも、米マイクロソフトも1月、起業家支援のワークショップを実施。日本の民間団体「シーセフ」や関西経済連合会などがヤンゴンでコンテストを開催している。こうした取り組みから次世代のベンチャーの誕生が期待されている。

<2016年1月号>2016年はこうなる!ミャンマー経済通が徹底討論

【特集1】2016年はこうなる!ミャンマー経済通が徹底討論(1) 運命の総選挙を経て、政権交代を選んだミャンマー国民。アウン・サン・スー・チー議長率いる国民民主連盟(NLD)による政権運営は2016年のミャンマー経済にどう影響を与えるのか、また、懸念される貿易赤字やインフレはどうなるのか。新興国経済に詳しい大和総研の佐藤清一郎主席エコノミスト、長年ミャンマーで生活し現地の政治経済に精通する武蔵富装の池谷修ミャンマー支店長、ミャンマー出身で若者の動向に詳しいチェルモの高瀬智也(チョー・へイン・ハン)CEO とともに、徹底討論した。 (司会は本誌編集長) 経済政策、大きな変更なしか ――11月8日の総選挙で、ミャンマー国民は歴史的な選択をしました。単独で大統領を選出することになるNLDですが、選挙公約にはあまり詳しい経済政策が書かれていません。この新政権をどう見ますか。 池谷 修 氏 武蔵富装ミャンマー支店長。 1968年外務省入省後、在ビルマ(当時)日本大使館員となる。その後ミャンマービジネスに携わり、ミャンマーで40年以上生活する。ミャンマーの政治経済に詳しい。 池谷 選挙の結果に驚いた方も多いと思いますが、私としては予想通りです。ここまでの票を集めるとは思いませんでしたが。ただ、この結果は53 年間続いた軍事政権への不信感によるもので、単にNLDの人気ではないことに注意が必要です。私は、テイン・セイン大統領は経済では十分な働きを見せたと思っています。彼はミャンマーを近代化し、オープンにしました。この事実は知識階層には評価されているのですが、一般市民は「あの人は軍人」としか思っていませんでした。悲劇の人と言えます。  短期的には、NLDの経済分野の手腕、経験における不安があると思います。でも、長期的に見れば軍政から移管していくことはいい結果になるでしょう。NLDが外国人の投資やプロジェクトをストップすることはないと思います。今までの外国との約束も引き継ぐ姿勢です。経済政策については、ブレインを集めているとも聞きます。多少の混乱はあると思いますが、個人的には楽観視しています。 佐藤 清一郎 氏 大和総研主席エコノミスト(ヤンゴン駐在)。 都市銀行、経済企画庁(現内閣府)を経て90年に大和総研に入社。ロシアやインドネシアに駐在し、新興国の経済分析に携わった。 佐藤 私も今回の結果をあまり心配していません。NLDが何をするかよりも、軍の特権をどう無くすかだと思います。今回、スムーズに政権移譲が実現しそうな背景には、スー・チー氏が、法に基づいた政治をすると言っていることが大きいと思います。軍の特権をなくしていくのは緩やかに進めるしかありません。そうなるとNLDは、軍と国民の両方から反発を食らう可能性があります。特権を減らされることへの軍の反発と、期待の割に目に見えた民主化が実行されないことへの国民のいらだちとの板挟みです。 高瀬 智也(チョー・へイン・ハン)氏 ミャンマー人向けニュースサイトを運営するチェルモCEO。ミャンマー出身で日本留学中に帰化。日本ではアクセンチュアグループなどでコンサルティングに従事。ヤンゴンで広告や製品プロモーションなどを手掛ける。 高瀬 ミャンマー人はみんなNLDに期待しています。スー・チー氏が政権をとれば給料が上がる、生活がよくなるという発想を持っている人も多いのですが、実際はそんな単純なことではありません。一方で、我々のようなビジネスマンが関心を持っているのは経済ですが、その部分については、大きな変化はないと予想しています。NLDも経済発展を重要視していますし、そのためには対外開放や外国投資の呼び込みなど今と同じような施策が必要となるからです。 インフレ懸念、消費抑制策が必要 ――さて、今年12月に証券取引所が開業し、来年にはティラワ経済特区の工場の操業も本格化します。大きな変革期ではありますが、2016年のミャンマー経済はどうなるとお考えですか。 佐藤 外国投資が成長をけん引しているので、8% 超の成長率は来年も変わらないと思います。海外からの投資については外国人に任せておけばいいと思いますが、重要なのは貿易赤字やインフレ率などの様々な経済指標を、適正な範囲に保つ政策が必要だということです。新興国にありがちなことですが、外国人からの投資が増えました、たくさんお金が入ってきました、お金が流れ込んだ結果国民の購買力が高まりました、そしてインフレになりました、ということになります。今のミャンマーそのものです。 いくら経済が伸びていても、インフレで物価が上がれば物が売れなくなり、ある程度のところで経済は失速します。2016年は約10%のインフレ率になると予想されています。10%前半はまだいいのですが、20%近くになると景気の失速が懸念されます。資金フローの管理が大事です。元をただすと、外国から大量の資金が入ってきたことでそうなったわけですが、これを新政権がどう管理するかが焦点です。また、生産性の向上を伴わない賃上げも、インフレの原因になります。 それと銀行の貸し出しが増えていますよね。本当は、これを引き締める政策を中央銀行がとらないといけないのですよ。海外からの資金流入の管理と金融引き締めで、購買力を少し落として、インフレを抑えることをしなければならない。しかし景気を抑えると「いい社会になると思って投票したのに、悪くなったじゃないか」とNLDにブーイングが来ますね。景気を悪くすることが実は重要な政策なのだとは、なかなかわかってもらえないでしょう。しかし、そうしなければもっと悪いことになります。今のところ、何も手をつけていないので、2016年も是正されません。再来年あたりが心配です。 池谷 テイン・セイン政権時の自動車輸入の自由化の影響は大きいと思います。当時、買える人も買えない人もみんな欲しがっていた。国民が欲しがったのです。そこで輸入を解禁して今の混乱を招いているのですが、「国際収支が悪くなるからだめだ」とテイン・セイン大統領は言えなかったのですね。インフレの話をすれば、ミャンマー人はインフレ率が10%程度だとは思っていないですよね。もっと上がっているという実感がある。一般庶民が接する生活必需品はもっと上がっています。 高瀬 若い人は目の前のものに夢中で、携帯や服に走っています。自動車も欲しいと言います。外資系企業は、そういった若者のステータスになります。だた、その厳しさの中ではじき出される人も多いですから、そういう人が何をするかというと、起業です。優秀かも知れないが十分な経験はなく、ただ自信はある。多くの人は、はたから見ると成功するようには見えませんが。 佐藤 起業という面で言うと、12月9日にヤンゴン証券取引所ができて、資金調達への道が開けました。起業したい人へのアドバイスができる環境もできてきています。証券取引所は投機の場ではないので、そうした本当の資金調達の需要がどれだけあるのか、来年は様子見ですね。 【特集1】2016年はこうなる!ミャンマー経済通が徹底討論(2) 運命の総選挙を経て、政権交代を選んだミャンマー国民。アウン・サン・スー・チー議長率いる国民民主連盟(NLD)による政権運営は2016年のミャンマー経済にどう影響を与えるのか、また、懸念される貿易赤字やインフレはどうなるのか。新興国経済に詳しい大和総研の佐藤清一郎主席エコノミスト、長年ミャンマーで生活し現地の政治経済に精通する武蔵富装の池谷修ミャンマー支店長、ミャンマー出身で若者の動向に詳しいチェルモの高瀬智也(チョー・へイン・ハン)CEO とともに、徹底討論した。 (司会は本誌編集長) チャット相場は下落予想 ――ここでみなさんに、ミャンマーでビジネスをする際の最大の関心事のひとつ、2016年末のチャット相場を予想して、フリップに書き込んで頂きたいと思います。今年は大きく下落して、12月上旬現在では1ドル= 1280Ks台で推移していますね。私としては、チャット安は構造的な問題と考えていますので、来年も下落が続き、50%の確率で1ドル= 1500Ks を超えるのではないかと思います。池谷さんは「50%の確率で1430~1460Ks」とだいぶ細かい予想ですね。 池谷 はい、この1年で25%~30%くらい下がっていますが、これは急激すぎると考えています。現在のチャット相場は歴史的にみても、一番安い水準に近づいています。一方で、貿易赤字は短期的に好転する要素がありません。こういうことを考え、1割程度の下落という予想です。 佐藤 経常赤字の拡大と高インフレ率の是正の可能性は小さいので、通貨は下落します。天然ガス価格も安いですし、ミャンマーの農産品も高くは売れませんから、貿易不均衡は続きます。米ドル自体の相場にも左右されますが、70%の確率で1500~1800Ks の水準になると考えています。来年あたりはまだ大丈夫でしょうが、再来年は1ドル= 3000Ks くらいまで行くかもしれません。 高瀬 政治的な安定を願う意味もあり、1ドル= 1400Ks 台の水準と思います。 ネットビジネス元年到来なるか ――これまで国レベルの経済の話をしてきましたが、ビジネスに話を移したいと思います。2016年にミャンマーで流行るもの、もしくは有望なビジネスは何でしょうか。本誌2015年7月号で特集した「ミャンマー版ヒット商品番付」では、東の横綱が「トヨタ車(中古)」、西の横綱が「SIM カード」となっており、ほかにも「フェイスブック」や「ギャラクシー」といったスマートフォン関連が並びました。 池谷 SIMカードは来年も普及が進むのではないですか。ミャンマーの新規加入者数は、インド、中国、米国に次いで4位だそうです。携帯を使うことが現代的でかっこよく、しかも車よりも簡単に手に入るステータスの代表になっています。低所得層に広がっていくでしょう。 高瀬 携帯の普及は、地方のほうが顕著で「テレビはなくても携帯はある」という状況が生まれていますね。ただ、まだミャンマー人は携帯やインターネットの使い方がわかっておらず、「インターネットとはフェイスブックのことだ」と思っている人もいます。ダウンロードにお金がかかると言って、せっかく買ったスマートフォンにアプリをいれない人も少なくありません。 […]

<2015年11月号>前例なし!ゼロからの経済特区ティラワSEZの挑戦

【特集1】前例なし!ゼロからの経済特区 ティラワSEZの挑戦 ティラワSEZの敷地を囲む道路のすぐわきに、草をはむ牛の群れがみえる。円借款で開発を進める隣接の港湾施設予定地は、一面草原が広がるばかり。それもそのはず、このティラワは2~3年前まで「何ひとつない原っぱだった」(開発会社幹部)からだ。 2012年に日緬が共同開発に合意すると、ティラワの風景は一変した。敷地内の道路や水路が整備され、いまも大型の建設機械が轟音をあげ、建設労働者が作業を進める。電気や水道が通り、工場の一部はすでに操業を始めた。日本政府は多額の円借款を投入して周辺の発電所や交通網の整備を急いでいる。 「何もなかった」のはハード面だけではない。経済特区はミャンマーにとって初めての経験。規制緩和を標榜しても十分な法律や細則がなかった。日本の専門家らの支援で、SEZ法や運用のフローなどを矢継ぎ早に整備。ビジネスの実務に合うような形で整備を進めている。ミャンマー政府はティラワを、ダウェーやチャウピューなど他のSEZのモデルとしたい考えだ。 ティラワSEZの2400ヘクタールのうち、9月23日にオープンしたのは、開発が進められているゾーンAの第一期開発エリア。第二期は来年半ばに工事完了の予定だ。その次には、ゾーンBの開発が待っているが、具体的検討はこれからだ。 いままでのところ、滑り出しは好調だ。工業団地には、すでに日本企業24社を含む13カ国の47社が予約契約済みで、ゾーンAの7割が埋まった。今年度中にさらに10社程度が増えるとみられ、開発に関わる住友商事の中村邦晴社長も「予想をはるかに上回るスピードで、驚異的だ」と驚く。 一方で、誕生したばかりの工場団地のインフラ整備は道半ば。大胆な規制緩和も、今後の運用実態を見てみないことには未知数な部分もある。また、「ミャンマー国内では投資条件はピカイチ」とされるティラワも、今後アジア各国の工業団地との競争が待ち受けている。「ティラワは日本の経済協力の象徴。絶対に成功させなくてはならない」(日本政府関係者)という強い期待のなかで、ティラワの試練は続く。 ティラワの論点 ポイント1 インフラ整備は進んでいるか ティラワでは、工業団地内のインフラをMJTDが整備し、周辺を日本政府の円借款でミャンマー政府が進めるという基本的な構図となっている。 最大の焦点は電力だ。来年前半に円借款による50メガワットの発電所が完成予定だが、それまでは国家電力網からの送電に頼る。ミャンマー政府は日本側に「優先して電力を回す」という意向を示しているが、ヤンゴンでも停電が頻発する中、どの程度優先できるのかはわからない。「すでに大きな停電が2回あった」との入居企業の声もあり、多くの入居企業が自前で予備の発電機を用意している。 円借款による発電所が立ち上がれば、状況は大幅に改善するとみられる。万一、発電所で使う天然ガスが不足した場合も、ディーゼルで発電できるようになっている。ただ、将来的にゾーンBなど開発面積が広がれば、新たな発電所建設などの対策が必要になってくる。 物流面では、ティラワ向けコンテナが到着するヤンゴン港までの道路は渋滞が多く、舗装も良いとは言えないが、JICAの円借款で道路を拡幅・舗装する。JICAはティラワ港も整備する計画だ。また、上組と住友商事が物流センターを特区内に建設中だ。 一方でヤンゴン港では、米国の制裁でドル送金に支障をきたすケースも出ており、注意が必要だ。 労働力では、フジワークが職業訓練センターを設立して、フォークリフトなどの技術を教える。このほか、特区内には労働者用の宿舎や商業施設などが集まるエリアもある。銀行も特区内に拠点を設ける。 ポイント2 規制緩和は十分か SEZ法では、特区内では広範な規制緩和が行われ、「ほとんどすべての業種が営業できる」(ミャンマー当局関係者)ことになっている。ラベル貼りや組み立てなど軽度な加工を行うことなどの条件つきで輸入販売が認められるほか、保険業など通常は外国企業に認められない事業も営業可能だ。 日本の損保大手3社は、SEZ法で認められた保険業務を行うために進出。ティラワ進出企業などに対し、火災保険や海上保険などの保険業務が可能になった。日本の損保と直接取引ができることになり、「コスト削減や手続き簡略化など顧客にもメリットがある」(三井住友海上火災保険)という。このほか、クボタは輸入販売での規制緩和を受け、ティラワに農業機械の販売会社を設立している。 これまでのところ、評判が良いのがワンストップサービスセンターだ。通関手続きや会社登録などに加え、ビザの発給なども行うことができる。ミャンマー投資委員会(MIC)では半年ほどがかかることもある会社設立で2~3週間、ビザ発給では3時間という例もあり、「ASEANで最も優れたワンストップサービス」との声も聞かれる。 免税など各種優遇措置もある。輸出型企業では建設資材や原材料の関税が免除され、その他の業種でも建設資材は5年間関税がかからない。法人税や商業税の免税制度もある。 ただミャンマーでは、法律とその運用に差があることもしばしば。法律で認められているはずの業種でも、スムーズに許可がでるとは限らない。進出企業は、今後の当局の動向を注視する必要がありそうだ。 ティラワに未来をかける日本企業 「市場10倍」見越し現地生産 エースコック【国内市場】 「スーパーで特売したら、予想以上の売れ行きだった」とエースコック・ミャンマー平野彰社長は笑顔を見せる。同社がミャンマーで発売した「HANA シャンカウスエ」のことだ。ミャンマーの即席めん市場に足場を築きつつある同社が次に目指すのは、現在ベトナムの同社工場から輸入している商品の現地生産化だ。 2017年の生産開始予定の工場は、フル生産すれば年間4億5000万食を生産できる。この量は現在のミャンマー全体の消費量に匹敵する。同社はミャンマーの即席めん市場が飛躍的に伸びると予想。ベトナムなどの例を考えると「消費量は現在の10倍になってもおかしくない」(平野社長)という。それだけの需要をみこして2000万ドルを投資する。 目下の課題は、現地生産による価格の引き下げだ。人気のHANAシリーズは、一袋600Ks程度で販売されている。200Ks程度で売られる商品もあることを考えると、品質重視とはいえ、さらなる顧客層の拡大には価格引き下げが必要だ。 しかし現地生産しても、コストカットはそう簡単ではない。小麦粉や食料油、パッケージなどの現地調達が難しく、ほとんどを輸入に頼るからだ。ただ、同社が1990年代にベトナムに進出した際も「だいたい似たような状況だった」という。ベトナムで成功をおさめたノウハウを生かし、地道にミャンマーの調達先を育成する長期的戦略だ。 ティラワには多様な日本企業が進出 ワコール 女性用下着を生産。2020年にはブラジャー200万枚が目標 フジワーク特区内で働く労働者の職業訓練 クボタトラクターや耕運機など農業機械の輸入販売と組み立て 王子ホールディングス段ボールなど生産し、総合的な包装サービスを提供 上組・住友商事物流センターを開設して、製品や原材料などを輸送 岩谷産業特区や周辺地域へ工業用ガスなどを供給 フォスター電機自動車用スピーカーを生産 (計24社) 世界に通用する物づくり 江洋ラヂエーター【海外輸出】 9月にいち早くテスト操業を始めたのが、自動車のラジエーターを生産する江洋ラヂエーター(名古屋市)だ。同社の生産するラジエーターは、新車ではなく交換用がメイン。世界中を走る多くの種類の自動車のラジエーターの交換需要を賄うため、多品種で少数の生産となる。そのため、機械化することが難しく、労働者を動員した手作業が必要だ。しかし、インドネシアや中国の生産拠点では、現地の人件費が高騰。そこで、人件費の安いミャンマーを次の拠点に選んだ。 ティラワで生産したラジエーターの全量を海外輸出する。はじめは20種類ほどで始め、その後増やす計画だ。 先行して進出しただけに、トップランナーの苦労も味わった。今でこそ評判の良いワンストップサービスだが、「我々が申請した時には、手続きの仕方が決まっておらず、当局や日本人アドバイザーと協議して手続きの流れを作った」(同社の江尻和泉会長)という。 また、労働者を募集した際には、ティラワが職場として十分知られておらず、人集めに手間取った。周辺の食堂にチラシを貼って目標数を集めたという。同社は採用したミャンマー人社員を、同社の海外工場に送り技術を学ばせている。ある女性技術者(23)は、インドネシアで研修の経験を積み、現在はラインの労働者をまとめる立場。「進んだ技術を覚えることができるのがうれしい」と胸を膨らませていた。 梁井崇史 MJTD社長兼CEOに聞く ヤンゴンの存在が利点 第一期地区が開業し、第二期地区は来年夏にオープンとなる見通しです。今までのところ、工事は順調に進んでいます。すでに47社の申し込みがありました。ハード面のインフラでは、日本政府の円借款によって整備が進みつつあり、たとえば発電所は来年前半に完成する見通しです。ソフト面のインフラでも、日本政府の支援を受けたミャンマー政府が規制緩和を進めています。今までのところ、ワンストップサービスは本当の意味で機能していると言えます。 特にインフラとして大きいのは大都市ヤンゴンの存在です。外国企業が進出する場合、住居や病院、学校などがそろっているヤンゴンから1時間というのは、大きな利点です。また、中小企業向けに、レンタル工場を建設する予定です。1ユニット1500平方メートルに細かくわけることで、小規模な工場でも使いやすくします。 地域とともに発展を ティラワSEZは地元とともに発展してゆくことを目指しています。地元の小学生に文房具を配布したり、学生に奨学金を支給したりしています。お寺に集会所を寄進もしています。洪水の被災者支援のため、1万ドルを支出しました。 将来的にはゾーンAだけでも、3~5万人の雇用が生まれると考えています。そうすると、周辺には、労働者の通勤の車や食堂など様々な需要が生まれ、地域が潤うはずです。すでに周辺には料理屋ができ始めています。これから企業が人を雇う段階に入りますから、間もなくその影響を実感してくれると思います。 地元の期待大きく ティラワの建設が進むにつれ、建設労働者や工場労働者が利用する飲食店が立ち並ぶ通りも出現した。発展への地元の期待は大きい。ある工場の女性労働者は「あと数年でこのあたりは大きく変わると思う。農村部にも職場ができるのはうれしい」と話していた。

<2015年10月号>ODAでみる ミャンマー未来予想図

【特集1】ODAでみるミャンマー未来予想図 ヤンゴンの街を十字に走る都市鉄道、二重に巡る高速道路――。国際協力機構(JICA)は、2014 年に作成したヤンゴン総合都市交通計画(YUTRA)で、2035 年までのヤンゴン交通網整備の青写真を描いた。ヤンゴン当局などは、このマスタープランを参考に都市整備を進めている。 YUTRA は増加する交通量を、自家用車に頼らず、公共交通機関の整備で乗り切る計画だ。まず、既存の環状鉄道を改良。道路の一部を専用路線にするバス高速郵送システム(BRT)を導入して住民の足を支える。同時に信号機を電子制御にして渋滞を緩和する。2025 年までには、高架と地下を走る都市大量高速輸送機関(UMRT)1号線をヤンゴン国際空港からダウンタウンまで整備し、内環状高速道路の一部を建設する。外環状の完成は2035 年以降になる。日本がヤンゴンの水道・電力も支援する。 全国の交通網整備も、JICA が中心となってミャンマーの省庁横断的に作成した計画をもとに進められている。ヤンゴン―マンダレー間の中央南北回廊や、ASEAN との窓口になる東西回廊など5 つの基幹交通網を優先して整備する。全土の交通整備では、2030 年までに約48 兆Ks の資金が要るという。ミャンマー政府のほか、各国の援助や民間資金で賄うことが提言されており、日本の支援は今後も必要とされそうだ。 日本は、2011 年の民政移管を機に、凍結していた対ミャンマー円借款を再開。2012 年度には約2000 億円、2014 年度も1000 億円近くに上る。またJICAは、2014 年度に技術支援などで380人の専門家を派遣。1000 人以上の調査団が訪緬している。 未来の「売れる」コメ生産へ、種もみ改良  長靴を履き田んぼの中を歩いていたJICA 農業専門家の藤井知之さんが、ふと気づいたように1本の稲を抜き去り、あぜ道に投げ捨てた。「違う品種が混じっていました」。続いてミャンマー人技術者と議論を始める。 藤井さんが支援するのは、コメ作りの根幹となる種もみの改良だ。ミャンマーではこれまで、種もみに多数の品種が混じってしまっていた。日本でいえばコシヒカリやササニシキなどが混じっているようなもので、成長の速さや収穫時期の違いで作業効率が悪いほか、収穫されたコメの品質も一定しなかったという。混入のない良質な種もみをつくることで、収穫量をあげ、付加価値の高いコメを生産、将来的には輸出競争力のある農業を目指す。 藤井さんら3人の日本の専門家が各地の種もみ生産農場で指導し、技術者を育てる。藤井さんは「1粒の混入もあってはならないという気持ちを持ってほしい」と話す。 特徴的なのは、マーケティングを担当する農業経済の専門家が参加していることだ。ミャンマーではこれまで、良質な種もみが少なかったうえ、種もみが食用に流用されるなどしてきちんと流通していなかった。良質な種もみの必要性を感じない農民も多いという。「農家にメリットを理解してもらわないといけない」と担当の三木俊伸さん。良質な認定種もみを使えば収穫量は20%増しになるという。モデル農場を作り、実際に農民に違いを見てもらう活動を行っている。 中澤慶一郎JICAミャンマー事務所長インタビュー Profile 2015年3月に国際協力機構(JICA)ミャンマー事務所長に着任。現在のJICAの前身のひとつの海外経済協力基金(OECF)に就職後、インド駐在などを経験。アジア向けの円借款など分野のキャリアを持つ。2010年からJICA米国事務所長。北海道出身。 改革を進める限り、日本は援助していく ミャンマーが民主的で発展した国となることは、日本にとって重要なことです。日本の対外援助の長い経験で得た教訓は、受け入れ国が本気にならないと、援助をしても効果がないということでした。いま、ミャンマー政府は改革を進めています。機は熟しました。ミャンマーが民主化を進め、経済改革を推進する限りは、日本は援助を続けます。 日本はミャンマー援助を全面展開している状況です。中でも、インフラ整備と人材育成が二本柱です。私たちは援助の質にもこだわっています。物づくりが発展しないと成長しないので、インフラを作るだけでなく、運営の技術も教えています。小学校の全教科のカリキュラム作りや、法制度支援などソフト面のインフラも支援していて、50 人を超える専門家がミャンマーの官庁で働いています。 官民連携も進めています。ティラワ経済特区(SEZ)が良い例でしょう。工業団地は民間主導で行いますが、効率的に許認可を進めるワンストップサービスの部分をJICA が支援しています。ティラワ周辺の発電所なども手掛けています。 ヤンゴンのインフラ整備では、経済活動を止めないまま工事を進めることが必要になりますし、歴史的な建造物も多く配慮が求められます。こうした点では、電車を一切止めることなしに渋谷駅の工事をしてしまうような日本の技術はとても役に立ちます。 日本は切れ目のないシームレスな支援を大切にしています。洪水支援では、緊急で毛布やプラスチックシートを送りましたが、中長期の復興の段階になると、防災教育などソフト面での取り組みも必要になるでしょうし、治山治水という課題も出てきます。日本にはそういった長期的視野の支援も可能なのです。 Q. 日本は財政赤字で消費税も上げなきゃいけないくらいなのに、どうしてミャンマーにはそんなにたくさん援助しているのですか? A. 確かに、日本のODA 総額が減っているなかで、ミャンマーへの援助は増えています。理由のひとつは、ミャンマーは今まさに援助を必要としているという点です。民政移管で改革の機運が出てきたからこそ、効果的な援助を行うことができます。一方で日本の外交から見ると、中国が「新興ドナー」として台頭している現状があります。太平洋諸国などでは、中国は経済援助を通じて影響力を増しています。地政学的に重要で、日本と歴史的な縁の深いミャンマーに対して、政治的な影響力を確保したいという日本側の思惑があります。また、日本企業にとっては、ティラワSEZ の開発や、知的財産法など法整備が進むことで投資環境が整えば大きなメリットになります。 Q. ODA は本当に役に立っているのですか? A. ミャンマーでは、1950 年代からの戦後賠償で建設されたバルーチャン水力発電所が現在でも稼働しているなど、かつて日本が援助した施設を大切に使ってもらっています。また、鉄道の信号機では古い日本製が現役で使われていて、日本の技術は関係者に高く評価されています。 日本の援助の特徴は「相手国と一緒になって作り上げていく」という点です。例えば法整備支援にしても、欧米の支援では、専門家が法案や制度の案を作成して終了というケースが多いのに対し、日本の専門家はミャンマーの関係者が納得するまで議論を重ねます。教育省のカリキュラム改訂や、ビジネス関連法の改正など国の根幹にかかわる部分で日本の専門家が重用されているのは、この様な姿勢が評価されているのだと思います。 ただ、こうした事実が十分に知られていないということは問題です。納税者の意識も高まっていますので、これまで以上の説明責任が求められます。また、ミャンマー国内でもODA による急激な変化には批判の声もありますから、丁寧な情報発信が必要でしょう。

<2015年9月号>いいね!ミャンマーfacebookワールド

KFC、記者会見より優先 ケンタッキーフライドチキン(KFC)のミャンマー1号店がオープンした6月末、ヤンゴンの新聞記者らは不満を募らせていた。公式発表である記者会見の2日前に、KFCを運営するヨマ・ストラテジック・ホールディングスがフェイスブックユーザー向けのイベントを開いたからだ。ユーザーは次々と試食の様子を投稿し、店舗の情報はネットに拡散。こうして記者発表はニュース価値を失った。会見で記者に「この国のマスコミよりもフェイスブックを重視しているのか」と追及されたヨマ幹部は、平然と「フェイスブックはKFCのターゲット層である若者に強い影響力がある」と答えた。 KFCがソーシャルメディア重視の姿勢を見せるのは、都市部の若者のほとんどがフェイスブックを使っているからだ。国内約450万人が使っているとされ、アプリの中でも最大の普及率を誇る。 「自撮り」からモデルに 多くの若者が好むのは、「自撮り」写真をアップすることだ。こうした自撮り写真がきっかけで、有名人になるケースも頻発している。 メイ・ピエ・ソン・アウンさんは、パテインのパイロット学校に通う女子学生。彼女は飛行中の自撮り写真を撮影してアップしたところ、「危なくないのか」と話題となった。彼女は「高度3000フィートで安定しているので大丈夫」と書き込んでいる。その後彼女は「美人すぎるパイロット候補生」としてマスコミに取り上げられることになった。 自称作家のシュエ・エイ・ティン・ティンさんの投稿も話題となっている。彼女の文学作品は誰も知らなかったが、アップされたグラマラスな写真がユーザーの間で注目を集め、「豊胸手術じゃないのか」と議論が勃発。あまりに話題になったため、化粧品などのモデルに起用された。映画出演の依頼もあるという。 「フェイスブック大臣」も 影響力の大きさから、政治家も使い始めた。有名なのは「フェイスブック大臣」の異名をとるイエ・トゥ情報大臣で、23万人以上が「いいね!」している。大統領のスポークスマンも務める彼は政府の見解をのべるだけでなく、一緒に訪日したテイン・セイン大統領が新幹線で弁当を食べる写真などユーモアにあふれる投稿が多い。東南アジア競技大会(SEAゲーム)でサッカー・ミャンマー代表がシンガポールと対戦した際には、シンガポールを強く非難。「言いすぎだ」と批判を浴び、彼のページは「炎上」した。このほか、シュエ・マン下院議長やミン・アウン・フライン国軍総司令官も公式ページを持っている。 ウワサの「フェイスブック通販」で買ってみた ミャンマーの若者に人気という「フェイスブック通販」をMYANMAR JAPON編集部が実際に試してみた。ミャンマー人スタッフの助言に従い、「online shopping」「Myanmar」というキーワードで検索。数多くのヒットの中から11万人が「いいね!」している「Dear Marry」を選んだ。 ミャンマー語ができなくても、写真があるので何を売っているのかはわかるし、値段も数字で書いてある。しばらく写真を物色し、アディダス(風)の腕時計(15,000Ks)を購入することにした。 配達方法など詳細が分からないので、チャット機能で聞く。「いつ届くの?」「明日」などと簡単な英語でやりとりできる。翌日の12時~1時にオフィスに配達してもらうことにした。クレジットカードが普及していないミャンマーでは決済が難しく、このサイトも配達時に現金で支払うシステムだ。 さて、次の日の午後1時を回ったが、誰も訪ねてこない。1時15分になり、チャットで連絡をしてみると、「今日は雨だから予定通りには着かない」との返答。1時半ごろ、携帯に連絡が入り「いま事務所を出るところなのだが、どのバスに乗ればいいのか」と尋ねてきた。雨は関係がなかったらしい。 2時ごろ、オフィスに青年が訪ねてきた。商品をみせてもらうと、確かに頼んだ通りの黒の時計だ。品代と2500Ksの配送料とあわせて17,500Ks。事前に配送料が3,000Ksと聞いていたので尋ねると「場所によって違う」との答えだった。 翌日配達で便利なのは確かだが、品ぞろえが少ないのが難点。逆に海外ブランドを幅広く扱うサイトは、注文を受けてから商品を調達するので2~4週間かかるという。

<2015年8月号>戦後70年特別企画軍票の謎を追え!

【特集1】[戦後70年特別企画]軍票の謎を追え! 「日本のソルジャーマネーをあげる」。ミャンマー人の若者にこう切り出され、何のことかわからないまま3枚の100ルピー札を受け取った。大きな「ジャパニーズガバメント」という英字に加え、漢字で「大日本帝国政府」とある。いわゆる軍票を目にしたのはこの時が初めてだった。 ヤンゴンにいると、しばしば日本の軍票に出会う。「日本のお金が本物か確認してほしい」と頼まれ見てみると、やはり軍票だった。ボージョーマーケット付近では、100ルピーから1セントまで9種類の軍票の綴りが数ドルで買える。 そうするうちに、ふつふつと疑問がわいてきた。この軍票はどこからどうやってやってきたのか。また、どうしてミャンマーの人々はいまでも軍票を持っているのか。前述の若者が「家にはまだたくさんある」と話していたことを思い出した。 彼の実家は、小説「ビルマの竪琴」の舞台にもなったモーラミャイン近郊のムドン。夜行バスに乗り、実家を訪れた。 「小さいころ、軍票をおままごとに使っていた記憶があります。青いお札、赤いお札、それから少し小さいサイズのお札があったと思います。大きなビスケットの缶いっぱいに、軍票が詰まっていました」 戦後生まれの彼の母親は、軍票をおもちゃとして使っていたと振り返った。曽祖父の時代から菓子店を営んでいる家族は、当時の日本軍にドライフルーツなどをよく売りに行っていたそうだ。 紙くずとなった軍票を曽祖父が保管していた理由を問うと、母親は「後々お土産品として売れると思ったのではないでしょうか」と答えた。終戦直後の混乱期に、将来日本人観光客がやってくることまで予想できたのかと釈然としないものを感じた。 長いこと保管していた軍票の束は2〜3年前に建てられたムドンの美術館に寄付したそうだ。それでもまだ残っていた3枚の100ルピー札を取材の最後に筆者に手渡した。 引き取り手のいない軍票 終戦後、外地から引き揚げてきた人たちの玄関口であった横浜税関。そこにはアジア各地の軍票のほか、満州鉄道の株券などが現在も保管されている。当時、GHQの指示により引揚者の財産の持ち込み制限がされ、横浜税関発行の引換証と交換で預けさせられた。引揚者たちが軍票をどんな思いで持ち帰ったのかはわからないが、今この財産を引き取りに来る人はいない。それでも、横浜税関はこれらの証券類の保管を続け、8月には紙の劣化防止のためにこれらを金庫から出して虫干しをすることが恒例となっている。 1941年以降、日本軍は蘭領インドネシアではグルテン、米領フィリピンではペソ、英領太平洋地域ではポンドなどの軍票を発行した。当時は日本に限らず各国が軍票を発行していた。軍票は、現地で雇用した労働者の賃金や、購入した物資の支払いに使われた。そしてビルマの人々の財産だった軍票は、日本の敗戦とともに紙くずとなった。ラングーン(現ヤンゴン)では、日本軍の撤退と同時に、街中に軍票がばら撒かれたという記録がある。 次に向かったのは、モーラミャイン近郊のトーク村。ある寺院で戦前から地元で暮らす88歳の高僧の話を聞くことができた。終戦時には18歳で、その後出家したという。「私は日本人と一緒に働いていました。日本軍のために火薬工場で働いていました。お金は働くたびにもらえました」。高僧はモン語でゆっくりと答えた。もちろん、その時の賃金は軍票で支払われたという。 日本軍敗戦後、持っていた軍票の一部は、現地の顔役を介してなんとか両替ができたが、一部は軍票のまま残った。換えられなかった分は人にあげたのだという。 「日本軍がまた戻って来ると思っていた人は多かったと思います」。どうして終戦後も軍票を持っていた人がいるのかと聞くと、高僧はそう答えた。「そのころ、イギリス人が日本は負けたという噂を流していました。ラジオなどでも流れてきました」。現地では信頼に値する情報源はどこにもなかったのだろう。日本軍が戻って来ることを予想して、軍票を安値で買い集める人すらいたそうだ。 こうして捨てられることのなかった軍票は今でも、ミャンマー人の家の片隅に眠っている。日本軍は戻って来ることはなかったが、70年の時を経て日本企業が多額のジャパンマネーをミャンマーに投資していることには、何かの縁があるのかもしれない。 Q:どうして日本はビルマで戦争したの? 日中戦争が泥沼化した1940年ごろになると日本軍は、蒋介石率いる中国国民党を支援する連合国軍の「援蒋ルート」を遮断して、中国を孤立させる作戦を考えたんだ。そのひとつが英領ビルマから雲南省に抜けるルートだったため、太平洋戦争開戦直後の1941年12月にタイ側からビルマに侵攻した。英国軍があまり抵抗をせずにインドに撤退したから、日本軍はあっという間にラングーンなどビルマの大部分を占領したのだけど、その後連合国軍の反攻を受けてラングーンから撤退したんだ。 Q:日本がビルマ独立を後押ししたって本当? そうだね。日本軍は鈴木敬司大佐率いる南機関が、ビルマで独立運動をしていた青年アウン・サンら30人に軍事訓練を施して、ビルマ独立軍を組織したんだ。1942年3月に日本軍に続いてラングーンに入ったビルマ独立軍は市民の熱狂的歓迎を受けた。ただその後の1943年8月にビルマは日本占領下で独立を宣言するのだけど、外交権がないなど実質的には日本の支配下に置かれていたから、ビルマ側には不満があったんだ。 インドの英国軍拠点を攻撃した「インパール作戦」が失敗して日本の劣勢が決定的になると、当時国防大臣だったアウン・サンは反旗を翻し、英国と手を組んで日本軍を撃退した。終戦後の1948年1月、ビルマは改めて英国から分離して、独立国となったんだ。 Q:戦争だから悲惨なこともあったのでしょう?  ビルマ戦線では、インパール作戦や「ミイトキーナ(カチン州ミッチーナ)の戦い」などの激戦に加え、疫病や食料不足で日本軍の状況は凄惨を極めた。およそ19万人の日本軍将兵が命を落としたとされているよ。今でも日本の民間団体が遺骨の収集を続けているんだ。もちろん英国軍や中国国民党軍など連合国側や、両陣営の激しい空襲にさらされたビルマ市民にも多くの犠牲者が出ている。 戦闘以外での被害も大きかった。中でも泰緬鉄道の建設では、人力による突貫工事をおこなったため、徴用されたビルマ人労働者や連合国軍の捕虜など10万人以上が死亡した。また、3年間の日本軍占領下の統治も厳しく、憲兵隊がスパイと疑った市民を拷問にかけたことから、ミャンマー語には「キンペイタイン(憲兵隊)」という言葉が残っているほどなんだ。また、日本は大量の軍票を発行したのでハイパーインフレとなった。交通網も破壊され、経済的にも大きなダメージを受けたんだ。 参考文献:物語ビルマの歴史(根本敬)、歴史物語ミャンマー(山口洋一)

<2015年8月号>[漫画上陸100周年!]巨匠に聞く、ミャンマー漫画への思い

【特集2】[漫画上陸100周年!]巨匠に聞く、ミャンマー漫画への思い 1915年にビルマ人初の漫画家バー・ガ・レーが作品を発表して今年で100年になる。時代の荒波の中でも、子ども達に夢を与えてきた漫画文化。 若者の漫画離れの声も聞かれる今、70年代から創作を続けるミャンマー漫画界の巨匠、ティン・アウン・ニー氏に、困難にもかかわらず筆を執り続けた思いを聞いた。 ティン・アウン・ニー(TIN AUNG NI) 1945年生まれ。1970年に漫画家デビュー。柔道漫画などを描いたのち、アクション・コメディ漫画「コーピャラウン」で一躍有名に。日常生活をユーモラスに描くことを得意とし、現在も子ども向け週刊誌「Putek」等に連載を持つ。日本財団の教育マンガプロジェクトでの作画も担当する。 時代の荒波にもまれた日々 幼い頃、私は身体が弱くて学校に行けず、文字も読めませんでした。そんな私の唯一の楽しみが、漫画だったのです。友人が読み聞かせてくれたおかげで、次第に自分も学校に行って文字を学びたいと思うようになりました。13歳頃から独学で漫画を描きはじめ、1964年に漫画家のマウン・ルイン先生に師事しました。 当時のビルマは大変厳しい状況で、漫画の発表はもちろん、漫画を描くための紙やインクを入手することすら困難でした。時には靴墨を水で溶かし、インク替わりに使ったりしました。生活に困り、路上で寝泊まりした時期もあります。手持ちの財産は眼鏡くらいでしたが、それがなくては漫画が描けなくなります。盗まれないよう、寝る時には地面に穴を掘って眼鏡を埋めていた、そんな時代でした。 デビュー後の1971年、私の「コーピャラウン」という漫画がヒットし、コミックを何冊も出版しました。仕事が認められて喜んでいたら、翌年にはビルマですべての漫画の単行本の出版ができなくなってしまいました。漫画家だけでは生活できず、出版社で校閲の仕事をしたりしました。 わずかな日本漫画に学ぶ 当時は娯楽が少なかったので、国民の読書欲は高まっていきました。海外の雑誌などはほとんど入ってきませんでしたが、時折古本屋に日本の漫画本が紛れることがありました。漫画家達はこぞって日本の漫画を買い求め、漫画の描き方を勉強しました。ミャンマー語訳などないのですが、日本の漫画は非常に勉強になると評判だったのです。 1973年、私は双子の兄弟が登場する「ピャガラウンとピャラチャウン」を発表しました。当時、ビルマ伝統の高床式家屋に住んでいて、その1階の庭に、近所の子どもがよく遊びに来ていたことから着想しました。連載は今も継続中ですが、時代の変化と共にストーリー構成も変えています。90年代以降は、子ども達が楽しみながら道徳を学べる話にしています。 国の英雄、漫画で伝え継ぐ 現在、日本財団とのプロジェクトの伝記漫画も創作中です。普段はユーモアたっぷりの漫画が得意な私ですが、伝記では英雄達の生き方を表現したいと思い、リアリティを重視しています。時代背景をよく考え、忠実な再現を心がけています。第1巻の「ウ・タント」の場合、子ども時代の写真がないので、現存する26歳当時のものから想像して少年時代を描きました。自国の英雄を描けることを誇りに思います。 今年は若手漫画家らが中心となり、ミャンマー漫画100周年記念セミナーや展示会を開催予定です。昔は大変な苦労をしましたが、時代は変わりました。若者の読書離れが指摘されていますが、これからは漫画家と政府、出版社が協力して本を読む環境を作っていけたらいいと思います。今後も子ども達に良い刺激を与えられる漫画を、ユーモアを交えて描き続けるつもりです。 ミャンマーの漫画は大きく3つの潮流に分けられる。風刺漫画と娯楽漫画、そして子ども向けの教育漫画だ。ヤンゴンのチェーン書店のひとつ「サペロカ5」によると、現在の売れ筋の一つが「トッピー」というハンターが主人公のアドベンチャー漫画。年齢問わず人気で「大人の私でも充分楽しめるストーリーです」と同書店のトゥ・ザーさん。日本の漫画では、「ドラえもん」や「NARUTO」等が有名だが、コミックは流通していないという。 1988年からダウンタウンで取次店を営むコー・ソー・オーさんによると、ミャンマーでは小説などとは違い、たとえ漫画がベストセラーになっても重版しないという。月刊誌のように定期的に出る雑誌が多く、次の号が出れば値段が下がるからだ。この値下がりした漫画本を安く仕入れる古本屋や貸本屋も、漫画の重要な流通経路となっている。

<2015年7月号>創刊2周年特別企画ミャンマー版ヒット商品番付!

【特集】[創刊2周年特別企画]ミャンマー版ヒット商品番付 規制緩和で商品入流  民政移管後、それまではごく一部のエリート層しか手にすることができなかった商品が、次々と規制緩和されることにより庶民でも手が届くようになった。その代表格が自動車だ。2011年に輸入規制が緩和されると、日本からの中古車が怒涛のように流入した。2014年の日本の中古車輸出先はミャンマーがロシアを抜きトップ。前年比約2割増の約16万台を輸出した。その中で圧倒的な人気を誇るのがトヨタ車だ。ヤンゴンの自動車 ディーラーは「軍政時代からトヨタ車は細々と輸入され、高額で販売されていた。その時からの強いブランドイメージがある」と解説する。  もうひとつ、一気に普及した商品が携帯電話のSIMカードだ。2011年には闇市場で2000ドル(25万円)だったSIMカードは、1500Ks(約170円)まで値下がりした。2014年の外資参入と、国営ミャンマー郵電(MPT)がKDDI、住友商事と手を組んだことなどで大量に供給された結果だ。各社の決算資料などによると、MPTは昨年7月のKDDI・住商連合の経営参画後、今年3月までに800万枚を超えるSIMカードを販売。新規参入組のノルウェー・テレノールは約640枚、カタールのオレドーも約330万枚を3月までに売った。 情報収集はフェイスブックで 多くの人が初めての携帯電話としてスマートフォンを手にしたが、一番人気はサムソンのギャラクシーだ。低価格でシェアトップの中国ファーウェイと比べて抜群のブランド力がある。スマホの普及でフェイスブックやバイバーなどのSNSアプリも流行。中でもフェイスブックはなくてはならないツールとして定着した。「若者は多くの新しい情報をフェイスブックで得ている」とADKミャンマーのウィン・ミャ・ティン・オペレーションマネジャーは分析する。   フェイスブックを販促で活用して評判なのが、自然派が売りの韓国系化粧品ブランド、ネイチャーリパブリックだ。フェイスブックで同社の問い合わせ窓口に質問を送ると、すぐに返事が来る仕組みだ。   化粧品では、日本ではドラッグストアなどで売られている低価格コスメのキャンメイクが、ミャンマーでは高級イメージを作ることに成功。 トーウィンセンターなど高級ショッピングセンターで売られている。ViViミャンマー版などに広告を出し情報感度の高い若者の支持を集めた。 規制緩和で商品入流 ライフスタイルも変化している。小売店で勢力を増しているのはコンビニだ。シティマート系のシティエクスプレスは豊富な品ぞろえと、明るい内装で消費者の心をつかみ、ヤンゴンに46店舗を展開する。       コンビニなどで酒が簡単に手に入るようになったためビールを飲む人も増加傾向。中でも根強い人気を誇るのが国産のミャンマービールだ。契約した飲食店にロゴ入りの看板や灰皿などを提供する手法で売上げを伸ばした。 食文化の変化は「ミャンマー的」だ。ミャンマーでは伝統的に、大事な家畜である牛を食べることを好まない傾向がある。その中で新興ファストフードの主役の座を射止めたのがフライドチキンだ。韓国系ロッテリアでは多くの人が1本1500Ksのフライドチキンをオーダーする。日系フレッシュネスバーガーも4月から導入。米KFCも近くヤンゴン中心部に出店する。 民政移管前は数えるほどしかなかった日本料理店も増え、現在ではヤンゴンに150店ほどあるとみられる。激戦の中で成功しているのは、ミャンマー人をターゲットにした大衆寿司店。物流が次第に改善し新鮮なネタがタイなどから安価に手に入るようになり、少しぜいたくをすればミャンマー人も利用できるようになった。日本帰りの料理人が起業するケースが多く、バハン地区の「ファミリー寿司」では両国の寿司屋で12年修業した板前が腕を振るう。 一方で「冬のソナタ」以降の韓流ブームとともに韓国の食文化も定着。トッポッキやキムチチャーハン、キンパといった韓国料理が浸透した。若者が好むのは韓国料理の屋台だ。       伝統料理が新しく生まれ変わる例もある。ミャンマーでは古くからお茶の葉をいり豆などと混ぜたラペットゥというおつまみがあるが、2014年ごろから増えているのは、ゆでピーナッツやトウモロコシに茶葉を和えたラペッアソン。彩りも豊かなうえ、500Ksと安く手軽に食べられるとあって、あっという間に屋台の定番となった。 Kポップ、コンサートで浸透 飲食店でよく見かけるのが、衛星テレビのスカイネットが放送する英サッカー、プレミアリーグで盛り上がる男たち。ビール片手に一喜一憂する。       政府系のテレビはあまり見る人がいない一方で、多くの人が楽しみにするのは唯一の民間地上波テレビ局のチャンネル7で、歌番組「エインマッソンヤ」やクイズ番組などが受けている。 音楽では女性ポップ歌手のニー・ニー・キン・ゾーが流行している。医師という変わり種の経歴で、豊かな歌唱力で聴衆を魅了。2014年にはスーパーマリオに扮した「マリオ」がベストセラーになった。     一方で韓国のKポップグループは次々とヤンゴンでコンサートを行い、ファンを獲得。昨年8月に2NE1がミャンマー史上最高額のチケット(2万5千~90万Ks)を売り1万人を動員したほか、今年4月には4Minuteも7千人を集めた。 海外の情報に触れるに従い、「若者たちは個性的な服装をしたがっている」と地元の専門家はみる。街を歩けば、金髪や茶髪、ソフトモヒカンなど奇抜なファッションの若者に出会う。美容院チェーンのT8は、こうしたおしゃれに気を遣う若者の人気を集める。高級イメージで、高級ホテル内などに出店。中国のヘアカタログを使うなど中国の影響が大きい。 一方でミャンマー人はとても勉強好きだ。日本企業の進出で日本語人材の需要が増したことから日本語学校が繁盛。技能実習生として日本で働く道があるうえ、日本留学の志望者も多い。学費の高い経営管理学修士(MBA)も富裕層を中心に人気となっている。 メガヒットなるか!? 売出し中の注目日本商品 ポカリスエット(大塚製薬) 今春に販売開始。ヤンゴンの幹線道路沿いに巨大な看板を設置し、テレビCMも流している。酷暑のミャンマーでは潜在需要は大きいが、スポーツ飲料を理解してもらうことが第一歩か。 LINE 今年3月にミャンマー人向けにサービスを開始した。同種のアプリではバイバーが圧倒的に支持されており、後発組が巻き返せるかが焦点。テレビCMのほか、ロンジーを着たキャラのスタンプで浸透を図る。