<2014年8月号>ミャンマー祭り実行委員会 名誉会長 安倍 昭恵 氏

今回のテーマ:「ミャンマー祭り」とは?これからの両国の交流は ミャンマー祭り実行委員会名誉会長、 NPO 法人メコン総合研究所名誉顧問 1962年東京都生まれ。87年安倍晋三氏(第90代、第96代内閣総理大臣)と結婚。ミャンマーには10回以上通い、学校(寺子屋)づくりのサポートを始めとし、積極的にボランティア活動に参画。2011年立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科修士課程修了。 首相の縁からミャンマーに 大事なことは現場を見ること 永杉 本日はお忙しい中、貴重なお時間を頂戴しましてありがとうございます。日本のファーストレディとして、また今秋も東京で開催される「ミャンマー祭り」実行委員会名誉会長として、HP や著書を拝見・拝読しましても多彩なご活躍に感銘を受けました。 まずはミャンマーとの出会いからお聞かせください。 安倍 2004年のアフリカ貧困視察(日本財団)に同行し、実際に現場を見たことで頭に思い描いていたものと現実との違いを強く感じました。何か私にできることはないかな、と思ったのが始まりです。ただアフリカは遠いので、身近なアジアでの活動を視野に入れました。 1998年頃から主人(安倍首相)は「アジアの子どもたちに学校をつくる議員の会」の活動を積極的に進め、党の議員連盟の人たちを率いてアジア各地に年1~ 2校を建設・開校していたため、私も活動の入り口は学校づくりだと思っていました。また85年、主人が外務大臣秘書官の頃に私も一緒にミャンマーを訪れました。今までの歴史観ではなく、アジアの未来を見据えていこうとする国の前向きな、あたたかい歓迎を受けたのです。この国の親日的かつ非常に日本人と近い感性もあって、共に感激し好印象を持ちました。 主人は以降も何度かミャンマーを訪れましたが、国と国の関係はあまり芳しくない時もあり、民間で活動を続けていく大切さを感じていました。また私は、アフリカでの活動に関わった際に「寄付を1円たりとも無駄にしてはいけない」ことを学びました。もし活動するなら、大切なお金がしっかり使われているのか、この目で確かめないといけません。初めはわからなくても、現場に足を運ぶことが大事です。自ら出向き、何が必要かどうかを見定め、本当に必要とされているならば支援しよう、と決めました。 リアルな国の姿を伝えたい 今年も東京で「ミャンマー祭り」 永杉 脈々と両国間の民間交流や支援が続いてきた理由や背景の1つがわかりました。その後、ミャンマーでの取り組みはいかがでしたか。 また、昨年秋には1日だけで約35,000人もの参加者を集めて大成功をおさめた「ミャンマー祭り」。その名誉会長に就任されたきっかけや、今年の開催にかける想いをお聞かせください。 安倍 周囲に「ミャンマーに行く」と言い続けたことで、ミャンマー関係者とつながりができました。そして現在のメコン総合研究所(※)の事務局長との出会いをきっかけに、マンダレーのいくつかの僧院を見て、1つの地域を定め学校づくりが始まりました。2006年から今まで名誉顧問として、これまでにお預かりした寄付で寺子屋(寺が運営する学校)小・中学校の建設を行い、それに伴う学校の物資支援なども地道に進めてきました。 祭りのきっかけは、活動を継続する中で近年、ミャンマー国の体制が大きく変わったことです。また、一方で、今までミャンマーに興味のなかった方たちが興味を持ち、ビジネスの機会を求めに来ています。ミャンマーに住んでもおられない方たちが急にミャンマーを語り出し、このままではミャンマーの間違った情報も氾濫するのではないかと危惧しました。今後トラブルが起こる可能性を考え、「リアルなミャンマーを日本の多くの人たちに正しく知ってもらいたい」と切に思ったのです。 国際交流の祭りは日本国内でも数多く行われていますが、ミャンマーが大好きな者として、今までの活動を踏まえた”ミャンマーを紹介する祭り”を開催してはどうかと考えました。また祭り以前にも、私たちはミャンマー関連のシンポジウムを手掛けており、両国の大使館とも親密な関係にあるため「今年はもっと大きくやろうよ」という私のひと言から始まってしまって(笑)。結果的に数多くの方々に集まって頂き好評でした。 成果の一例として、普段は反対勢力と呼ばれる人も一緒になって踊るなど、垣根なく楽しめるイベントとなったのがうれしかったです。今年は日本ミャンマー外交関係樹立60周年ですから、さらに多くの人にミャンマーの魅力を知って頂くために、昨年よりも大きな祭りを目指しています。ぜひ倍以上、10万人くらい来て頂きたいですね(笑)。 昨年秋、35,000人もの参加者を集めたミャンマーの祭典 活動の経緯、そして今年の「ミャンマー祭り」にかける想い―― 日本人に共感できる国民性 ミャンマー人に学びたい心 永杉 なるほど、つまり言い出しっぺなんですね(笑)。祭りがきっかけになって大きな流れが生まれ、そして多くの日本人に知ってもらう。またミャンマー人同士もともに理解し合える、とても素晴らしいイベントです。 ところで、ミャンマー人に対して個人的な印象や感想はいかがですか。 安倍 とてもあたたかい人たちで、明るく前向きな印象です。また軍事政権時代の影響があるからか、過去のことをとやかく言わないといいますか、”未来を見ているよりは来世を見ている”感じがしました。日本人にとっては共感しやすい国民性ですね。 寺子屋に関わってきて、子どもたちが一生懸命勉強し、親や先生をとても大事にする、いじめもほとんど存在しない状況を見ると、まだまだ昔の日本のよさが残っていて、そこから私たちも学ぶところがあるのではないかと感じています。 両国の長い歴史を忘れず感謝と末永い関係づくりへ 永杉 よくわかります。私たちの若い時代にあった大切な忠誠心や真面目さは、今を生きるミャンマー人にとても共感するところがあります。 最後に、日本とミャンマーに関わりを持つ人たちに向けたメッセージをお願いします。 安倍 始めに関わりを持ったきっかけは主人ではありましたが、「なぜミャンマーか」と問われて思うのは、戦争でミャンマー国内だけで19万人も亡くなっている方たちに対する弔いの思いと、日本人が戦争中も戦後にも助けて頂いたことに対する恩返しになればという思いです。やっているというよりは、やらせて頂いているという感謝の気持ちですね。 あと、広告ばかりではないこのような日本語情報誌の存在は、住んでいる日本人にとって非常にありがたいことだと思います。日本とミャンマーはアジアの中でこれから重要になっていく2カ国で、さらなる関係構築に際しミャンマー在住の日本人は”日本人代表”とも受け取られます。 今後はミャンマー人のために英字版も創刊されると聞いています。日本のビジネスや生活情報の信頼できる発信源としても、ミャンマージャポンさんにはますます頑張って頂きたいです。 永杉 本日は思いもよらぬとても光栄なお言葉を賜り、心より感謝致します。本当にありがとうございました。これからも編集部およびスタッフ一同さらに気を引き締め前進して行きます。  2014年10月18・19日(土・日)に東京・増上寺で開催される「ミャンマー祭り2014」。昨年に続き、駐日ミャンマー大使館・公益財団法人浄土宗ともいき財団・NPO 法人メコン総合研究所の3団体が主催。激動する現状のミャンマーを市民が身近に感じ、衣・食・文化・経済を紹介することで、ミャンマーの認知度を高め、両国の交流と発展に貢献できるよう盛大に行われる一大イベント。日本ミャンマー外交関係樹立60周年記念事業の一環 MYANMAR JAPON CO., LTD. CEO ビジネス情報誌「MYANMAR JAPON BUSINESS」、「MJビジネスバンコク版」、ヤンゴン生活情報誌「ミャンジャポ!」など4誌の発行人。英語・緬語ビジネス情報誌「MYANMAR JAPON+plus」はミャンマー国際航空など3社の機内誌としても有名。日本ブランドの展示・販売プロジェクト「The JAPAN BRAND」ではTV番組を持つ。ミャンマーの政財界や日本政府要人に豊富な人脈を持ち、ビジネス支援や投資アドバイスも務める。 一般社団法人日本ミャンマー友好協会副会長、公益社団法人日本ニュービジネス協議会連合会特別委員、WAOJE(旧和僑会)ヤンゴン代表。

<2014年7月号>JETROヤンゴン事務所 高原 正樹 所長

今回のテーマ:[創刊1周年記念]激動のミャンマー、この1年 日本貿易振興機構(JETRO)ヤンゴン事務所 所長 1965年生まれ、新潟大学法学部卒。89年日本貿易振興会(当時)に入会。海外調査部中東アフリカ課、米州課に勤務後、96年~2000年ニューヨーク事務所にて調査を担当。04~09年に上海事務所次長、経理課長、機械・環境産業企画課長等を経て、12年5月より現職。 ※ JETRO(Japan External Trade Organization)は経済産業省所管の独立行政法人、政策実施機関。 長い潜考期間を経て進出へ リピート訪問の日本人増加 永杉 本日はお忙しい中、お時間を頂戴しましてありがとうございます。早いもので前回の対談から1年が経ちました。お互い歳をとりましたね(笑)。この1年間、ミャンマーの経済やビジネス環境は激変していると肌身で感じています。日本人や日本企業の増加を見ても顕著に表れていますし、街中では外国人が明らかに増えています。実際、日本企業の動向はいかでしょうか。 高原 1年前の対談時に、数多くの日本人がヤンゴンを訪れているという話をしましたが、引き続き状況は変わっておりません。毎月500~800名くらいの人が来所します。ただ1年を振り返ると、明らかに変わった点はいくつかあります。1つはビジネス訪問者の質です。以前は視察や情報収集をミッションにして来る方が多かったのが、最近は本気でビジネスを考える方の“ リピート訪問” が目立ちます。 年に1度の展示会『Japan Festival』への出展状況を見ると、今までは製造業よりも6,000万人といわれるミャンマー消費者に対してサービス・製品を売りたい、という日系企業や販売代理店の強い勢いがありました。また1年前は「インフラがない」「工業団地もない」という状況下で視察に来ても、「時期尚早だ」とあきらめて帰る人も多かった記憶があります。しかし、今はティラワ経済特別区の開発が具現化し、スケジュール通り来夏には開業する方向で進む中で、製造業分野で具体案を持って来所する人や企業が増えてきた印象です。 事業の中味としては、例えば段ボール製造や腕時計の部品製造、インスタント麺の製造など、長い検討期間を経て本格的に事業展開に動き出す企業が出てきています。ただ全般的にいえば、日本の進出企業の大半は実質的には駐在事務所であって、情報収集や代理店の支援を主に1人、2人でやっているケースが未だに多いです。まだ芽吹きの段階と言えるのではないでしょうか。 消費者の変化が顕著に 良くなる一方で落とし穴も 永杉 国の変化はいかがでしょうか。この1~2年で外資が入ってきたことによって、雇用された若者の生活も変化しました。給料が増えれば、購買意欲も高まります。消費財が売れ、市場は活性化していく。ジャンクションスクエア等の大型ショッピングモールに行ってみると、一目でわかります。この1年間の変化というのは、どういうところに現れて、どのような結果をもたらしているのでしょうか。また、急成長し、変化も激しいからこそ注意しなければならない点は何でしょうか。 高原 国際統計上では、ミャンマーは未だに1人あたりの年間GDP が900数十US ドルというアジアの最貧国に近い数字ですが、ご指摘の通りその一方では、ショッピングモールに行くと普通に買い物をしている人たちもいます。この1年で顕著に感じるのは、外資が入ったことで、例えば携帯電話事業のライセンスを取った会社などでは、大規模に雇用を開始してスキルのある人を高額で採用するなど、ホワイトカラー層の収入がどんどん上がってきていることです。 少なくともヤンゴン市内では、中間所得者層が増えてきて、消費に影響を与えているはずです。ここ最近の驚きでいえば、日本料理店が増え続け、日本の外食チェーンがミャンマーに上陸を始めたこと。居酒屋やラーメン店がオープンし、ハンバーガー・チェーン店も進出を予定しています。初の海外店舗をミャンマーに設けるケースもあって、驚きと共に、ミャンマー市場への大きな期待を感じますね。店にミャンマー人客も多いことから、受け入れられていると分かります。 注意すべきは、法律面の変化です。12年11月にできた外国投資法の細則を見直すという話が出たり、経済特別区の改正法が今年1月に通ったりしましたが(施行細則は未発表)、いろいろなことが変わっていくため、いつでも法律を見て「できる・できない」をウォッチし続けないといけません。担当や省庁によって判断が異なることがあるため、法律面でのセカンドオピニオンは必要にですね。 ヤンゴン日本人商工会議所(JCCY)の登録企業数は、2012年3月の段階では53社だったものが、2014年5月末の段階では168社と、3倍以上に増加。同年4月、5月の2カ月間で新たに22社が加入するなど、進出のスピードは確実に増している。 1年で大きく変化を遂げたミャンマー 進出日本企業とミャンマーの将来は―― この1年で顕在化した問題 両者が感じた今年の光明は 永杉 この1年間の変化のひとつとして、ミャンマー人材の不足があります。雇用の拡大とともに給料が上昇している中、急成長するミャンマーならではといえる体験をしました。 当社は関連会社で人材紹介サポート事業を行っていますが、ある日系の縫製企業がマネージャークラスのミャンマー人材を求めていました。企業は月給800USドルでオファー、しかし面接で当人が提示した金額は1,500USドル。もちろん採用には至りませんでしたが、極端なズレも垣間見えます。 高原 不足といえば、進出企業を中心に海外からの外国人が急増し、住居や宿泊先の確保に困りました。特にヤンゴンの不動産価格高騰は想像以上で、直近のホテル、オフィス、住宅価格は異常でしたね。ただし、市場自体は供給が増え、今までみたいに「予約が取れない」「泊まれない」「物件がない」状態からは緩和されつつあります。 「ティラワ経済特別区と貴誌の情報発信力に期待」 永杉 この状況はミャンマー経済、特に今まで足踏みしていたような外資系企業にとっては朗報ですね。 今後のミャンマーの発展に期待は高まりますが、これからの日系企業の動きなど、どのようになると想定されていますか。 高原 ペースは変わらず、まだしばらくは進出を希望する企業が絶えずミャンマーを訪れることでしょう。当所の来客数の推移を見ていても感じます。ただし、目的がより具体的に、投資プランを持った方々が占めるのではないか、とみています。業種では、これからは製造業分野が出て来やすい環境になりますね。日本政府が円借款で特区のインフラ整備をします、という好条件はなかなか他にはないと思います。 ところで最後になりましたが、1周年おめでとうございます。ミャンマーで初めての月刊誌として発行され、ビジネス関係の記事を中心によくまとまっていて、参考にさせてもらうことも多いです。特に地図や生活関連情報が充実しているので、私もいつも使わせてもらっています。これからも楽しみにしています。 永杉 ありがたいお言葉、光栄です。今後もますます変化を遂げるミャンマーにおいて、“ 生“ の情報を誌面やサイトを通じて届け、日本ミャンマーの友好と経済推進のために尽力していきます。  2014年2月にヤンゴンで行われたJETRO 主催『Japan Festival 2014』。出展後にミャンマー進出・本格展開を決めた日本企業もかなりの数に登るという。ティラワ経済特別区の進捗を含め、JETRO 等の支援機関による存在は心強い MYANMAR JAPON CO., LTD. CEO ビジネス情報誌「MYANMAR JAPON BUSINESS」、「MJビジネスバンコク版」、ヤンゴン生活情報誌「ミャンジャポ!」など4誌の発行人。英語・緬語ビジネス情報誌「MYANMAR […]

<2014年6月号>国際協力機構(JICA)主要感染症プロジェクトHIV・血液対策専門家  吉原 なみ子 氏 (国立感染症研究所 エイズ研究センター前室長)

今回のテーマ:日本の約10倍、ミャンマーに潜むエイズなど感染症の実態とは 国際協力機構(JICA)主要感染症プロジェクトHIV・血液対策専門家(国立感染症研究所 エイズ研究センター前室長) 東京都出身。1969年東京大学医学系大学院修士課程修了。80年国立予防衛生研究所 血液製剤部室長、88年国立感染症研究所 エイズ研究センター室長。タイやフィリピン、カンボジアのHIV 対策等に携わり、90年ごろからミャンマーのエイズ関連の改善協力のため同所を訪れ、2005年から国際協力機構(JICA)の「主要感染症対策プロジェクト」に参画。現在も日本と行き来しながら、問題解決や人材育成に尽力。 輸血分野のエキスパート 機会得てミャンマーの地へ 永杉 本日はお忙しい中、お時間を頂戴しましてありがとうございます。 早速ですが、まずエイズ問題の概要と歴史、ミャンマーに関わりを持たれた経緯をお聞かせください。 吉原 まず、概要を説明しますと、エイズはHIV 感染により免疫系が破壊されて感染症や悪性腫瘍を引き起こし、死に至る病気です。症状が現れるまでの無症候期間が6カ月から15年以上と長く、この間に感染させることが世界的に大きな問題になっています。 アジアにおいても流行し、1990年には15万人だったのが2012年にはインド、中国などを中心に600万人に達したとの報告もあります。 私は70年代から日本の大学や研究機関で、輸血の分野で研究と開発を行っていました。その成果の1つとして、今も実施されている献血制度を導入しました。また、”エイズ” 問題に着目し、国内だけでなく周辺国対策や支援の必要性を感じ、アジア各地へ足を運び、現状を調査・研究してきました。 ミャンマーは軍事政権下、潜伏している感染症の問題がありました。政府関係者から極秘に依頼を受け、80年代後半から90年代にかけて短期訪問。そこで問題を真剣に捉える現地パートナーの方々と出会うことで、長期にわたって支援するようになったのです。 ミャンマーとエイズ問題 ゼロからの仕組みづくり 永杉 ミャンマーのエイズ問題は、あまり知られていない印象があります。どれほど深刻なものなのでしょうか。 吉原 ご存知の通り、今では貴誌のような媒体も数多く発行され、自由に情報発信できるようになりました。しかし、厳しい軍事政権下では情報の口伝いの開示すらご法度でした。当時は、「この国の感染症被害者数はゼロです」と公式発表されていたくらいです。 実際にはミャンマーでは3疾病(HIV・エイズ、結核、マラリア)が患者数、死亡数の上位を占め、国民にとっての大きな脅威となっていました。日本では2万人と言われるエイズ感染者は、現在国内に20万人以上、毎年8,000人以上が新規に感染していると推定されます。 エイズ関連でこの国の力になれないか。以前にカンボジアで約10年間エイズ対策に取り組んだ際には、無料の検査施設でHIV 検査が実施され、HIV抗体陽性率は年々減少してきました。ミャンマーでは、治療法が何もないゼロからのスタートです。まず簡単な検査試薬を用い、血液検査から開始。加えて質を高めていく中で、国際協力機構(JICA)による対策プロジェクトが本格的に始まり、支援は徐々に進みました。そして民主化の波で情報規制も緩和され、取り組みが拡大されていったのです。 《ミャンマーのエイズ感染者数》 感染者は1999年をピークに減少。理由は大半が死亡したためという。年間で18,000人が死亡、8,000人が新たに感染というデータもある。新規感染者は以前より減少しているが、まだまだ高いのが現状。 出所: HIV Estimates and Projections Myanmar 2010-2015 かつては日本の献血制度を確立し長年ミャンマーのエイズ問題に注力 ミャンマー国民性は特出 土台を築いて人材育成へ 永杉 まさに土台をつくられたわけですね。では、現在はミャンマーの現場で主にどのようなことを行っているのでしょうか。また、ミャンマーの特性はありますか。 吉原 感染への対策としては予防と検査が極めて重要です。具体的には、「献血者登録システム」を開発し、ミャンマー全土の主要な病院に導入しました。これによって、HIV・エイズの血液が、献血を通して感染が広がるリスクを削減できました。また、検査精度管理にも力を注ぎ、性感染症の検査能力やスキルの向上に努めているところです。 他国と違うミャンマーの魅力は、実行力の素晴らしさでしょう。一般的にアンケート調査の回答率は約半数で、よくても7~ 8割程度ですが、ミャンマーでの精度管理調査の報告は9割以上の回答が得られるのです。受け手の誠実さも感じられ、やりがいを感じますね。ミャンマーの国民性であり、仏教徒の姿でしょうか。昔の古き良き時代の日本を思い出し、この国の人がさらに好きになりました。 国の変化に期待と不安交錯 感染症研究と指導を地道に 永杉 先生もミャンメロ(ミャンマーにメロメロ)のお1人ですね(笑)。 最後に、ミャンマーの最近の変化の中で、今後のミャンマー医療に携わる思いをお聞かせください。 吉原 数年前のヒラリー・クリントン前米国務長官訪問後の国の様変わりには驚きました。以前は情報開示をしてくれませんでしたが、今はウエルカムという状況です。とはいえ、まだ医療の体制は整っていません。300数十カ所の主な病院を、年に何回か訪問し、指導にあたっています。プロジェクトはパートナーとなる受け入れ機関や担当者が信頼できるかどうかが成功のポイントですね。 まだまだ課題は山積みです。国の発展によって、例えば交通事故が増えるに従い、輸血が必要になるため、現場スタッフの負担も増えます。また性病は世界からなくなったことはありません。建設が増えれば、人の移動も起こり、都市に性に関する正確な知識を持たない労働者も増えるはずです。これからこの国の感染症問題がどうなるかわかりませんが、だからこそ重要な役割だと実感しています。安全な血液対策だけを考えても、やっと一歩を踏み出したところで、人材育成など日本が協力できることはたくさんあります。 永杉 先に経済発展を経験している日本の医療技術や人材育成のノウハウが、今後も大いにミャンマーで活かせますね。これからもエイズを始めとする感染症問題の解決に向けた研究、ミャンマーへのさらなる支援にご尽力ください。 国際協力機構(JICA)による主要感染症対策プロジェクト HIV /エイズ、結核、マラリアを対象とし、国家プログラムに関わる行政・医療スタッフの技術力、運営能力の向上、将来的に罹患率・死亡率を低下させることを目指し、「主要感染症対策プロジェクト」が2005年1月から5年間実施され、その後延長された。実施体制・能力の更なる強化、継続的な支援が必要となり、ミャンマー政府は協力を正式に日本側に要請、12年3月から3年間の同プロジェクト・フェーズ2が実施されている。 感染症は他人事ではない 知っとく! 衛生・医療メモ ●性・血液感染症:エイズ、B・C型肝炎などあり。 ●デング熱:雨期の5月から10月にかけてヤンゴン市内でも発生。昼間に蚊に刺されないよう配慮、夜の蚊はまれにマラリアになる可能性も(特に地方へ行く際は要注意)。 → 予防は蚊取り線香・蚊帳の使用、常に冷房を効かせる等、「長そで・長ズボンの着用や市販の虫よけスプレーも効果あり」と吉原先生。 (参照:外務省ホームページ) […]

<2014年5月号>ミャンマー野球代表チーム 岩崎 亨 監督

今回のテーマ:元国連職員が蒔いた種、野球を通した教育とは ミャンマー野球代表チーム監督 1955年、神奈川県横浜市生まれ。横浜市立大卒業後、通信コンサル会社、国際大学大学院を経て、世界保健機関(WHO)ニューヨーク事務所やアフリカ地域事務局へ。95年から国連薬物統制計画(UNDCP)ミャンマー事務所代表。98年に国連を辞職し、国際協力事業団(現国際協力機構・JICA)専門家として、ミャンマーを中心に東南アジア地域の薬物対策プロジェクトに従事。2000年ミャンマー初の野球指導を開始、02年「岩崎無双塾」を設立。現在はミャンマー野球連盟特別顧問の他、TMI 総合法律事務所ヤンゴンオフィス顧問、国際幼稚園「KHAYAY」運営など多岐に渡る。 ミャンマーの変革を見届ける原点は国連時代の体験から 永杉 本日はお忙しい中、お時間を頂戴しましてありがとうございます。早速ですが、まず国連、そしてミャンマーに関わりを持たれた経緯、その思いをお聞かせください。 岩崎 はい。まずは世界の舞台で公正中立な立場にたって仕事がしたいと、国連の仕事に就きました。1995年に国連薬物統制計画の駐在代表として、ミャンマーに足を踏み入れます。当時のミャンマーは「ゴールデントライアングル(※)」の一角で、世界2番目となる大規模なケシ生産国という位置付けがありました。そこで薬物対策を担当することになるのですが、具体的には、ケシを減反させるために政府の協力を仰ぎながら地域住民と武装勢力の説得を行い、他の作物への生産移行などを促し、結果的にはケシの作付面積を約50%まで抑えることができました。 リサーチ等の成果を認めてもらい、国連の後はJICA の「薬物撲滅プロジェクト」の立ち上げに参加し、ミャンマーとのつながりは深くなります。その後はタイにも派遣されますが、1年半後には戻ってきました。携わったプロジェクトの収束を見届けたい興味と、今までにいろいろな国を見てきた中でミャンマーがどう変貌していくのか、この目で見てみたいという気持ちがあり、家族そろってミャンマー生活を決めたのです。 ※: ミャンマー東部シャン州からタイ、ラオスの3国がメコン川で接する山岳地帯。「黄金の三角地帯」と呼ばれ、栽培するケシは麻薬の原料にもなる。 人間として成長すれば野球は絶対うまくなる 永杉 ミャンマーに多大な貢献をされてきたわけですね。では、野球との関わりはいつ頃からなのでしょうか。またミャンマー人を指導するにあたり、大切にしている心構えはありますか。 岩崎 2000年、唐突に「ミャンマーに野球連盟を作り、そのためのチームを指導してほしい」という依頼がありました。野球の存在しない国で野球を教えるなんて思いもよりませんでした。ただ、国民的スポーツであるサッカーは厳しい競争があり、選手の優劣も最初からハッキリしますが、野球に関してはスタートラインが一緒。練習を積み重ねれば代表選手になれる可能性が高いのです。また、麻薬に手を出すミャンマーの若者の姿を見てきたこともあり、「夢を与えたい」「若い人が集まる場を作りたい」と思い、全く未知への挑戦ではありましたが、引き受けることにしました。 準備もゼロのため、まずは球場探しから始まり、グラウンド整備も手作業で行いました。メンバーを集めて繰り返しの練習。参加するミャンマー人は、初めこそは新しいスポーツに興味を持っていましたが、そこから意欲をどう持続させるかが大事です。常に社会や経済状況に左右され、家庭環境が原因で心の安定が保てない選手もいました。妻と一緒に毎日が試行錯誤の連続でした。 指導という面から見たミャンマー人の難しさは、柔軟性や融通に欠ける部分です。原因は教育。マニュアル的な詰め込み教育のために、創造性が生まれません。言われたことはできても、自分で考えて次に進むことがなかなかできないのです。これは、野球では大事な要素です。ルールやボールの投げ方を知っているだけでは駄目。周りへの観察力や応用力がないと、試合には通用しない。そういう感覚は実生活でも、仕事においても必要です。社会で通用する人間を育てるために、野球を通じてヒントを与えたいのです。人間として成長すれば、野球は絶対うまくなるという信念があります。 日本の野球界にミャンマー人選手 ミャンマー現地のみならず、日本からも資金や物資など多くの支援を受けている。縁のあった四国アイランドリーグの鍵山誠CEO の応援を受け、2013年6月に「香川オリーブガイナーズ」に教え子ゾーゾー・ウー投手が入団。ミャンマー人初の日本での野球選手が誕生した。 現在[2014年3月末時点]も活躍中で、ミャンマー国際航空(MAI)が協賛。 ゼロからミャンマーに野球を 青少年育成に力を注ぐ日本人監督―― ミャンマーの人材育成へ 環境づくりに家族で尽力 永杉 ミャンマー球児たちとのドラマは著書『ミャンマー裸足の球児たち―元国連職員が蒔いた一粒の種』(アットワークス刊)を読むとよくわかります。ヤンゴンで生活していると、本文に出てくるミャンマー男子たちの言動と、岩崎さんのご苦労がとてもよく理解できます(笑)。 野球とは別に、塾や幼稚園を運営されていますが、若者の教育につながる一環としての取り組みなのでしょうか。 岩崎 そうですね。まず2002年に「岩崎無双塾」を設立しました。将来に夢を持って生きる大人を育成するために開始し、現在も、非営利団体として、幼児教育の支援事業およびIMI ベースボールクラブ運営組織として存続しています。また、ミャンマーには幼児教育の専門家がいないため、04年には日本の幼稚園の支援も受け、ボランティア組織の教員養成センターを設立しました。 そして2008年には、「KHAYAY(カエイ)」国際幼稚園を作りました。文献等でみても創造性や独創性を身につけさせるのは、脳の仕組みでは2歳~6歳まで。ミャンマーの学校の授業にない芸術、音楽、5カ国語教育などを取り入れて潜在的な力を伸ばす早期教育を継続中です。妻を園長に、現在は長女と次女が教員として頑張っています。 平和の象徴 野球”を通じて日ミャンマーの交流促進へ 永杉 多様性に適応できる子どもたちが育ちますね、楽しみです。私も「バイカルチュアル」な教育の重要性を感じています。 最後に、長くミャンマーに携わる日本人として現在や、今後の野球への思いをお聞かせください。 岩崎 両国の交流はますます広がっていくでしょう。ミャンマー人は人を許せるという感覚を持つ優れた民族ですから、非常によい人材に成長していくと思います。歴史的に見る負の背景も日本人は理解しながら、相互理解の上で関係を強化していくことが必要です。 野球は平和の象徴だと思うんです。2005年夏に合宿の一環でミャンマーチームのメンバーを甲子園に連れて行くことができましたが、平和だからこそ野球ができるとつくづく思いますね。ミャンマーの若者たちとともに、努力を積み重ね、今後も野球を通じて多くのメッセージを伝え届けたいです。 永杉 野球の指導も含めたミャンマーにおける若者教育への熱い思いが伝わりました。これからも教育とミャンマー野球界への支援、日本とミャンマーの友好関係の推進にご尽力を頂き、ご活躍ください。 「KHAYAY」国際幼稚園には、ミャンマー人が4割、18カ国の子どもが通う。「最近拡張しましたが、待機児童が60人ほど出ており、早く体制を整えていきたい」と岩崎さん。今後は要望の多い小学校の併設も検討中だという。 MYANMAR JAPON CO., LTD. CEO ビジネス情報誌「MYANMAR JAPON BUSINESS」、「MJビジネスバンコク版」、ヤンゴン生活情報誌「ミャンジャポ!」など4誌の発行人。英語・緬語ビジネス情報誌「MYANMAR JAPON+plus」はミャンマー国際航空など3社の機内誌としても有名。日本ブランドの展示・販売プロジェクト「The JAPAN BRAND」ではTV番組を持つ。ミャンマーの政財界や日本政府要人に豊富な人脈を持ち、ビジネス支援や投資アドバイスも務める。 一般社団法人日本ミャンマー友好協会副会長、公益社団法人日本ニュービジネス協議会連合会特別委員、WAOJE(旧和僑会)ヤンゴン代表。

<2014年4月号>サッカー ミャンマー女子代表 熊田 喜則 監督

今回のテーマ:ミャンマー女子サッカーを一躍国民的英雄に引き上げた、影の立役者 サッカー ミャンマー女子代表チーム監督 福島県東白川郡出身。選手育成の名門「三菱養和.SC」出身。その後、全日空横浜サッカークラブへ移籍。選手引退後は、桐蔭学園高校やJFL の福島.FC、そして大阪学院大学、韓国・大慶大学等の指導に携わった。1992年サンパウロ.FC に留学し、C.B.F ブラジルサッカー協会公認プロライセンス取得。2004年JFA公認S 級コーチ資格を取得。11年8月ミャンマー女子代表監督に就任後、2012AFFWomen’s Championship in Vietnam、2012U-19AFC Women’s Asian Cup(U-19FIFAWomen’s Asia 最終予選)等の成績を評価され、12年AFF 女子最優秀監督賞を受賞。翌13年SEA Games(東南アジア競技大会)において銅メダルを獲得。ミャンマー女子サッカー発展に大きな力を注ぐ。 サッカー代表としての義務と権利を教え込む 永杉 本日はお忙しい中、お時間を頂戴しましてありがとうございます。早速ですが、ミャンマーに着任された経緯や、今の代表チームに至るまでのエピソードをお聞かせください。 熊田 日本サッカー協会のアジア貢献事業に興味を持ち、日本サッカー協会の推薦で、2011年の8月末ミャンマーへ来ました。 私は招集した選手への初回のミーティングで「代表選手としての価値と生き方」を説きました。「代表選手としてどの様な存在にならなければならないのか、そして誰もが憧れる選手として何をすべきか?」を説明しました。選手個々の生活を向上させるためには勝つことが義務付けられることも話しました。この考えは、今でも女子代表の「心得」としています。 指導の最初の壁は、環境や文化の違い、そして言葉の壁でした。最初の私の仕事は、英語のフットボール用語をビルマ語のサッカー用語に換えることでした。例えば「オフサイド」「パス」等の違いです。 ミャンマー人の文化・習慣の違いは、自分で限界を決めてしまうことです。練習中にも靴が合わないのか、疲れてしまっているのか自分でスパイクを脱ぎ座り込んでしまう。私は、「ライオンに追いかけられているウサギが、足を怪我したと言って止まりますか」と選手によく伝えます。自分がプレイを放棄し、レフリーに制止されることがASEAN では、よく見受けられます。 ワールド・スタンダードでフットボールを考えると、習慣も文化も考える必要はなく、世界基準で考え、落とし込んでいかなければなりません。文化や環境を越えたことを選手には要求しています。 ミャンマー人の指導に共通する掌握法とは 永杉 監督の指導力もありますが、なぜミャンマー女子代表がこの2年と数カ月で、ここまでの高いレベルに達したのでしょうか。 また昨年はASEAN サッカー女子最優秀監督賞の受賞や、12月のSEAGames でミャンマー女子代表は3位入賞と大活躍されました。今はどんな手応えや思いがありますか。 熊田 精神論ではなく、世界基準で物事を考えていくことです。彼女たちが元々高いポテンシャルを持っていることに気付きました。 一番に考えたのは、彼女たちの運動能力をどの様に引き出すかでした。ミャンマーの学校授業には体育がないので、能力が眠ってしまっています。私は週の始めの練習でフィジカルトレーニングを入れ、特に有酸素能力を高めるために、800mインターバル走を繰り返し行いました。フットボールのフィジカルトレーニングでは、基本的な練習です。そこで走るためのグループ分けをするため、選手1人1人の有酸素能力を計りました。 今では月に1回、1,000mの記録を2回計って選手のMax の変化を分析しています。最初は手を抜く選手が多く、記録として使えませんでした。しかし、現在では、選手個々が自己記録を更新するためにコンディショニングを調整してくるように意識も高まりました。 最初は、力を出し切らないので、出し切らせるために彼女たちへ「自己記録更新」することで、賞金を出すことを考えました。そうする事で選手個々の記録も徐々に集められるようになりました。 今回のSEA Games は正直に言って” 勝てる” と思いました。優勝できると思っていました。何故ならば、私が就任して一番のチーム状態だったと思っていたからです。しかし、勝負には”運”も必要だということをこの試合で気付かせられました。 12月のSEA Games(東南アジア競技大会)でサッカーミャンマー女子代表3位入賞、銅メダルを獲得。監督は今年5月の2014AFC Women’s Asian Cup(2015FIFA Women’s World Cup Asia Final Round)アジア最終予選に勝負をかける ミャンマー女子フットボールの1ページに名前を残した日本人監督―― 表面的に盗んでも駄目 サッカー哲学の自信と確信 永杉 なるほど、指導にはやはりアメとムチが大事ですね。 今回、いわゆる” […]

<2014年3月号>JICAミャンマー事務所 田中 雅彦 所長

今回のテーマ:縁の下の力持ち、JICA ミャンマーの活動とは JICA ミャンマー事務所 所長 福井県出身。1988年、国際協力事業団(当時)入団。医療協力部、外務省出向(ボリビア日本大使館書記官)、無償資金協力業務部、総務部、青年海外協力隊事務局、政策研究大学院大学教授、理事長室上席秘書官等を経て、2011年9月よりミャンマー事務所長。 ミャンマー行政を強力支援 民主化後の大転換期 永杉 本日はお忙しい中、お時間を頂戴しましてありがとうございます。 ミャンマーでJICA の名前はよく耳にするのですが、実際にはどのような活動をされているのでしょうか。また今、事業で一番支援に力を入れている分野は何でしょうか。 田中 当機構の海外事務所は現在100程度ありますが、ミャンマー事務所は世界で最も忙しい事務所と言われています。日本外務省の下、ODA(技術協力や有償資金協力<円借款>、無償資金協力)を通じてミャンマー政府に協力し、ミャンマーの社会や経済の発展を支援しています。 明治維新の頃に政府に招聘された外国人技術者がいました。彼らは、様々な法律や制度を作成し、土木や建設技術を教えるなど、日本の国づくりをサポートしました。私どもは今、ミャンマーへ日本人技術者や資金などを提供し、同国の国づくりを助ける仕事をしております。 事業は大きく3つの柱があります。1つ目は道路、電力、水などの経済発展に欠かせない基礎インフラの整備支援です。当機構の専門家が、ミャンマー政府内に入って技術指導をしているほか、有償・無償資金協力を通じた支援をしています。 2つ目は人材育成や、国の骨格となるような制度作りです。例えば、法支援では日本の弁護士や検事をミャンマー法務長官府に派遣し、法律の起草過程をサポートする。また、中央銀行の決済システムのIT 化支援、教育分野ではヤンゴンとマンダレーの工科大学へ日本の先生を派遣して大学の教育や研究のレベルを一段階上げる試み、ビジネス人材の育成など、さまざまな人づくりに取り組んでいます。 3つ目はミャンマー国民生活の向上です。保健分野では、保健省職員の能力向上支援や感染症対策のプロジェクト、農業開発では農業の生産性向上のための各種プロジェクトを進めています。 ミャンマーに寄り添い援助からの卒業を目指す 永杉 初歩的な話になりますが、そもそもJICA の数多くのプロジェクトの仕組みを教えてください。また近年、事業が急激に拡大したことで、問題点や悩みはありませんか。 田中 当機構は、すべてのプロジェクトを”G to G(政府と政府)” で行います。技術協力では、ミャンマーの省庁に専門家を派遣して人づくり・組織づくりを支援します。有償・無償資金協力では、ミャンマー政府を通して国際入札等を行いますが、日本企業の積極的な参加が期待されています。 問題点を挙げるとすれば、ミャンマー側の受け入れ能力の弱さです。日本政府から資金や専門家が来て教えても、スタッフの経験不足等により、どんどん遅れていく。ミャンマー政府は「急いで変化をしたい、日本の反応は遅い」と言いますが、本当はどうでしょうか。これが大きな悩みですね。 解決策は、一緒に活動して教えることだと考えます。今まで多くの途上国支援を行ってきた中で、成功か失敗かの境目は、その国の政府や国民がどれだけ自分たちの問題として、自分たちで取り組み、消化していくか。援助はいつか終わりが来ます。 アジアの前例を挙げれば、韓国もかつて受けた援助を卒業(=自立)し、タイやマレーシアも同じ道をたどっています。ミャンマーも今後15年~20年で、最低でもタイの国レベルに追いつき、いずれ日本の援助から卒業を迎える日が来るでしょう。 2011年テイン・セイン政権前までは、年間30億~40億円で推移してきたが、昨年から有償資金協力が再開したことで1,000億円を超え、数十倍の支援規模に。 ミャンマーの自立を目標に国づくりのサポートに尽力―― 長い目で共に育むため日系企業の進出に期待 永杉 私の好きな映画に”Back to theFuture” があります。未来を見てきた人には、次はこうすれば良い、と事前予測ができます。語弊はありますが「未来の」日本から来た我々は、同じ過ちを繰り返さず、かつ進化するためのノウハウを持っている。ぜひ日本企業には積極的に進出してもらい、ミャンマーとともに成長する気概を持って頂きたい。 田中所長は数多くの事業をバックアップされる中で、日本企業の進出に対してはいかにお考えでしょうか。 田中 日本企業の人が視察に来られて、よく言われるのは「人材不足」「インフラの欠如」「各種法的な未整備」です。見方を変えれば、少し時間をかけることで人も電気も通信も水も、必ず良くなっていきます。まずは日本企業が来て、人材育成から一緒にやって頂きたい。タイやベトナムでも同様のアプローチを経て、現在の成長があります。 軍事政権時代という鎖国状態が長く続いた影響から、ミャンマー人のリーダー層の不足が問題視されています。しかし同時に、一部でタイやシンガポールに出た優秀な若者が祖国に戻る” 帰国組” が増えました。彼らの活躍の場ができていけば、国自体の成長も早いとみています。現代の最新技術をすぐ導入でき、また近隣国の失敗事例に学べるからです。 ミャンマーは日本に片思いをしていると思います。日本では偏った報道イメージが多く残念だと、現地に来てから痛感しています。ミャンマーの” 伸びしろ” を考え、先行投資のつもりで進出してほしいです。 潜在的なパワーのある国 ミャンマー貢献にやりがい 永杉 お話を伺って、行政サポートを軸にした、まさに手取り足取りの対ミャンマー支援の熱い想いを感じました。 最後に、所感やミャンマーに向けたメッセージをお願いします。 田中 ミャンマー人の気質、潜在能力に可能性を感じています。一つは90%を超える高い識字率、基礎学力の高さはアジアでも類を見ません。あと一つはモラルの高さです。目上の方を尊敬し、時間を基本的には守って、ウソはつかない、悪いことをしない国民性。アフリカや中南米と比較しても、抜きん出て素晴らしいと思います。 この激的に変わるミャンマーの国や人づくりに関われるのは、本当に幸せなことです。ミャンマーの明治維新に立ち会える外国人は稀でしょう。ミャンマー人の国を変えたい情熱に感化され、JICA 関係者の多くが「少しでもお役に立ちたい」という気持ちでいっぱいです。 永杉 心理学の要素も含まれていますね。確かにビジネスにも通じる話で勉強になりました。 5月の女子ワールドカップアジア最終予選に向けて、今後ますますお忙しくなると思いますが、ミャンマー女子フットボールの発展のため、ミャンマーのスポーツ界の活性化につながるさらなるご活躍を心から祈念しております。 ≪ミャンマーJICA 豆知識≫ 1.医療や建築、農業など多くの分野で、ミャンマー政府から、日本へ毎年400名近くの研修員を派遣。その後は学んだ技術を活かしながら、各省で活躍している。 2.ミャンマーの歴史で一度も撤退しなかった援助機関はJICA のみ。欧米諸国の機関は88年以降に一時撤退、世界銀行もアジア開発銀行も撤退した。これは極めて特異で、JICA へのミャンマーの閣僚による評価は高いという。 3.事務所は日本人16名、ミャンマー人スタッフは26名の体制。他にも関係省庁に入って活動する専門家、コンサルタントを含めると、関係者は総勢100名以上。 [2014年2月1日現在 […]

<2014年2月号>ファッションデザイナー コシノ ジュンコ 氏

今回のテーマ:ミャンマーSEA Gamesにかけた想い、ファッションの力 ファッションデザイナー 大阪府岸和田生まれ。文化服装学院デザイン科在学中、新人デザイナーの登竜門とされる装苑賞を最年少で受賞。パリコレクションを皮切りに北京、NY、ベトナム、ポーランドなど世界各地にてショーを開催し、世界から高い評価を得ている。舞台衣装やスポーツユニフォームといった服飾デザインをはじめ、幅広い分野で活躍中。 民主化前のミャンマーで外国人初ファッションショー 永杉 本日はお忙しい中、お時間を頂戴しましてありがとうございます。 早速ですが、ミャンマーとの関わりはいつ頃からになりますか。またこの国の印象はどのように感じられますか。 コシノ 依頼を受けて訪れた2009年が最初です。民主化前のヤンゴンで、2日間にわたるファッションショーを開きました。日本の外務省が推し進める文化交流の一環(日メコン交流年)、ミャンマーにおいて外国人で初のファッションショーです。少し前にベトナムでもファッションショーを行っており、その話がミャンマー側に伝わったようです。 ミャンマーの最初の印象としては、軍事政権下ですから、どこか街も堅いイメージはありました。また、ファッションモデルは世界レベルと比べればまだまだ。当時、現地でモデルのオーディションを開催し、なんとか男女24人を選びましたが、日本からもモデルを呼んでショーを創りました。 もう1つは、ショーの最中に停電がありました。突然びっくりしますよね、慣れていませんから(笑)。そのときにミャンマー人モデルとお客さんが手拍子で、何事もなかったかのように淡々と進めていたのは、今でも思い出します。 約4年後となる今回のミャンマー訪問の印象は、自由な感じがします。女性たちがおしゃれをして、明るいイメージです。大きく変わりました。 大統領から頂いた機会 コシノ流・日緬の架け橋 永杉 約3年後の2012年6月、日本の「文化・スポーツ交流ミッション」にて訪問団がテイン・セイン大統領を表敬した際、13年12月のSEAGames(東南アジア競技大会・ミャンマー開催)におけるミャンマー選手団および関係役員のユニフォームデザインの要請を直々に受けました。その時のお気持ちと、今までに至る道のりをお聞かせください。 コシノ 大統領の言葉は光栄でした。首都・ネピドーに表敬訪問し、私がデザインした日本の浴衣を贈呈したところ、大統領に自ら試着していただき、現地のテレビ・新聞は大々的に取り上げてくれました。他に意図があったのかは知り得ませんが、この事実に日本人として純粋に応えないといけないと強く感じました。 その後、承諾の連絡をした際に、ミャンマー政府のスポーツ大臣より製品2,400着の提供も要請されました。当初は日本とミャンマーとのファッション技術を通した文化交流を意図しミャンマーに古くから進出している日鉄住金と共同で現地での縫製も検討しましたが、まだ今の技術ではデザイン性に富んだ、丈夫で薄く、通気性の良い機能をも備えたユニフォームの製作は難しい事がわかり、さらに予算調達の問題もありますので、ここはオールニッポンで進めようと思いました。 それから、日本の大手企業に声をかけ、最先端技術を用いたユニフォーム製作を行いました。技術面では、セーレン社の薄くて軽い透湿・撥水加工を施した素材と立体的に色彩・柄を表現するビスコテックスプリント、YKK の簡易分離ファスナー、吸汗・通気性に優れた東レ(メンズ)と帝人フロンティア(レディース)の裏地を使用しました。他にもパナソニック、イオン、ANA、島田商事をはじめとする多くの企業からの協賛、協力を得られました。 13年5月の安倍首相のミャンマー訪問時には同行し、政府の皆様にユニフォームをお披露目しました。完成したばかりのユニフォームを羽織られた安倍総理をご覧になったテイン・セイン大統領は、とてもお気に召された様子でした。すべて”メイドインジャパン” にこだわったユニフォームの完成です。このSEA Gamesを通じ、日本とミャンマーが交流できたことに感謝したいですね。 日本を代表する世界的デザイナーミャンマーで日本との架け橋に―― ミャンマー人はおしゃれ まず業界人材の育成から 永杉 2013年11月16日にヤンゴンで行われた2,400着の贈呈式、その後の映像とファッションの” コシノ・ワールド” ともいえる、日本とミャンマーの文化が融合されたショーを会場で拝見し、非常に感動しました。海外の大舞台を数多く経験されているがゆえ、日緬の架け橋の意味を持つ大きな交流プロジェクトを大成功の形にできたのだと感じました。 R さて、民主化された現在のミャンマー人のファッションに関しては、率直にどのようにお感じですか。 コシノ どこで買ったのか、というらい多くの女性がモデル化しています。高いヒールも履いていますし、わずか数年の成長度合いは”すごい!”の一言です。モデルのオーディションをしていても、ハイヒールのおかけで身長がわからないですね(笑)。想像していたより、ミャンマーの人はおしゃれでした。女性は痩せていて、丸顔で印象は日本人にどことなく似ているからか、この国でのファッション業界のグローバルな可能性は感じています。 今ここで必要なのは、育成の環境づくりです。近年、ミャンマーのファッションデザイン協会ができました。その人たちが活躍すること、また次世代の若い人たちを学校などで育てること、日本とのデザイン交流のお手伝いをすること、だと思います。できる限り協力していきたいです。 ミャンマーの発展に期待 これからも「日本」を発信 永杉 日本企業の進出と、親日国という背景もあって、日本語を学ぶミャンマー人は非常に増えています。またヤンゴンにおける日本料理屋も、この数カ月だけでも急激に増えました。日本人だけでなく、ミャンマー人にとってもヘルシー、トレンディだと好まれていて、衣食住の”食”の文化交流が進んでいます。”衣”のファッションに関しても、自然に興味を持つ人が増えている気がします。 最後に、ファッションに関して、特にミャンマーにおける今後の展望とメッセージをお願いします。 コシノ ファッションというと、欧米をモチーフにしがちですが、少数民族にしても、国や地域によって独特な魅力を持っていますから、自国の個性を活かしたらいいと思います。ロンジー(ミャンマーの伝統的な腰布)も素敵ですよね。 前述した2,400着の贈呈式のショーで、モデルにミャンマーの少数民族衣装を着てもらいました。また、同時に披露した” 日本を着る” という意味を込めた浴衣は、暑い時期の多いミャンマーの人に似合うと思いますし、日本への興味を湧き立たせるものです。 ミャンマー人の腰から下は、ロンジーを着て、サンダルをはく……まさに日本の浴衣文化と同じです。現在、クールジャパン推進会議(※)の委員もしているため、日本とミャンマーの関係がさらに密になるよう、これからも何かしらの発信と貢献を続けていきたいと思っています。 ※クールジャパン推進会議:日本の文化や伝統を産業化し国際展開するため、官民あげて推進方策や発信力強化に取り組む内閣官房主導の会議 永杉 人のご縁やショーを通じ、現地の人とコミュニケーションを図り、ファッションの魅力を伝えられている様子がよくわかりました。これからもさらなる日本文化の発信と、世界的ファッションデザイナーとしてのご活躍を心から祈念しております。 MYANMAR JAPON CO., LTD. 代表 MYANMAR JAPON および英字情報誌MYANMAR JAPON+ plus 発行人。ミャンマービジネスジャーナリストとして、ビジネス・経済分野から文化、芸術まで政府閣僚や官公庁公表資料、独自取材による多彩な情報を多視点で俯瞰、マーケティング・リサーチやビジネスマッチング、ミャンマー法人設立など幅広くミャンマービジネスの進出支援、投資アドバイスを務める。ヤンゴン和僑会代表、一般社団法人日本ミャンマー友好協会副会長、公益社団法人日本ニュービジネス協議会連合会特別委員。